ヤクルト本社、仏ダノンとの資本関係解消 背景にはダノンを利用した経営陣と販社の対立(中)
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仏食品大手ダノンは10月6日、保有するヤクルト本社の全株式6.61%を売却すると発表した。売却額は600億円規模。両者は約20年にわたる資本関係を解消したことになるが、ヤクルトにとって中身をともなわない提携関係で時間を空費した20年だった。ヤクルトとダノンの提携を、社内抗争の歴史から見てみる。
代田稔、永松昇のコンビがヤクルトを立ち上げた
ヤクルト本社の歴史を振り返ってみよう。
京都帝国大学で微生物を研究していた医学博士の代田稔が1930年に、乳酸菌の強化・培養に成功(乳酸菌シロタ株)し、35年に福岡市で代田保護菌研究所を立ち上げ、「ヤクルト」の製造・販売を開始した。「ヤクルト」という商品名は、エスぺラント語でヨーグルトを意味する「ヤフルト」を基にした造語。福岡市営地下鉄空港線の唐人町駅近くに「ヤクルト事業創業の地」と書かれた石碑が建っている。側にヤクルトの自販機が設置されているのはご愛敬だ。
経営を担ったのは永松昇。福岡県遠賀郡若松町(現・北九州市)出身の実業家。代田博士の「乳酸菌飲料の普及を通じて人々の健康に貢献する」という考え方に感動してヤクルトの販売に身を投じた。ヤクルトを普及させるために、希望する者に製造・販売権を分け与えたことにより、全国にヤクルトを扱う業者が現れた。しかし戦争で多くの製造工場を失った。
第2次大戦後、ばらばらになっていたヤクルト関係者を代田稔、永松昇の2人が集めた。旧ヤクルト関係者を中心に事業再開の気運が高まり、1951年、戦後初の本格工場である大牟田工場が立ち上がった。販売会社、製造工場の関係者たちが全国規模の組織再編を要望してきたことを受け、55年4月、(株)ヤクルト本社が設立された。初代会長に代田稔、初代社長に永松昇が就任した。
“中興の祖”となるニューリーダー松園尚巳が登場
この本社設立前後に、ニューリーダーが登場する。松園尚巳である。
松園は22年、九州の島である長崎県南松浦郡三井楽町(現・五島市)の出身。戦後、法政大学専門部を中退し、53年、長崎市で乳酸菌飲料ヤクルトの販売事業に参加した。
54年、上京し、永松昇から八王子での営業権を譲り受け、ヤクルトの製造を開始。56年に設立した関東ヤクルト製造(現・松尚)を中心に短期間のうちにグループ最大規模の製造工場をもつ実力者となった。転機は63年。社長の永松昇と、若き実力者として台頭してきた松園正巳の間で、激烈な権力抗争が起きる。永松は社長を退任。松園が専務取締役に就任。2代目社長は代田博士、会長にはお目付け役として財界から元国策パルプ会長の南喜一が就任した。永松は創業メンバーで初代社長でありながら、その名前はヤクルトの歴史から消えた。
ここから松園時代が始まる。松園は新機軸を次々と打ち出した。母子家庭で育った自身の経験から、女性が就業し経済活動に参加することの意義と活動の重要性を説き、女性販売員ヤクルトレディによる独自の宅配システムを確立して業界トップの座へと駆け上がった。67年、ヤクルト本社の社長に就任。
サンケイアトムズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)を買収して、球団のオーナーに就いた。球団は、産業経済新聞社とフジテレビジョンが所有していた。両社とも「財界四天王」と呼ばれた水野成夫が経営しており、水野とヤクルト会長に就いた南は、戦前の共産党からの転向仲間だ。経営が悪化した球団をヤクルトが買収したため、「水野の窮地を盟友の南が救った」といわれた。
その後、株式上場もはたした松園は名実ともにヤクルトの最高実力者となった。絶対君主として君臨していた松園は94年12月、72歳で亡くなった。ここから、ヤクルト経営陣の迷走が始まる。
(つづく)
【森村和男】
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