織田信長の天下統一は濃尾平野の豊かさのおかげ
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歴史遺産の塊の地
10月19、20日名古屋へビジネス出張。その際、清州城(清須市)、金華山・岐阜城、犬山城(犬山市)を4時間半の短い時間であったがタクシーで駆け巡った。この地域に戦国時代後期の歴史遺跡がいかに山積しているかよく理解できた。訪問地域を拡大すれば関連の歴史遺産が無限に湧きでてきそうだ。歩けば歩くほど、この地域が戦国時代を終了させ、近世の幕開けとなった場所であることを痛感した。濃尾平野の豊かさ、先駆性、文化度の高さなどの要素が、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の各政権の誕生を後押ししたのである。
織田信長の資金源は無尽蔵
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』において二条城再建の光景が放映された。この資金の大半を織田信長が賄ったといわれている。ただ、信長が農民たちから緊急に徴税したという話は聞かれず、悠然と資金を提供したと語られている。これは裏を返すと信長の資金源が無尽蔵であったことを証明するものである。濃尾平野地域は1450~1600年のころ、物流・商業活動が日本有数の活発な場所であったといわれる。
その経済的な豊かさに信長の卓越した商才が加わったのである。商業活動を活発にさせる『楽市楽座』を導入した。とくに田舎であった岐阜にこの方式を持ち込んで、短期間で商業地域に仕立て上げた。それゆえ、信長統治地域では商人たちから莫大な上納金を得ていたと思われる。上洛の折には早期のうちに商都堺を抑え込むという算段もしていた。巨大な信長政権はプロ軍団の組織化と指摘されているが、信長の卓越した商才に帰結する要素もあったと考えられる。
清州は尾張の首府
室町時代の応永12年(1405年)、尾張国の守護職であった斯波義重が、守護所であった下津城(稲沢市)の別邸として建てられたのが、清須城の始まりといわれる。文明8年(1476年)の戦乱により下津城が焼失した後、文明10年(1478年)守護所が清須に移転してきた。この時から清須が尾張国の中心地となった。清須は京都と鎌倉とを結ぶ往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり、尾張の政治・経済・司法の中心として繁栄した。
信長は弘治元年(1555年)に那古野城から清須城に入城した。ちょうど尾張を統一し、掌握した時期に当たる。1960年の桶狭間の戦いに勝利してこの尾張の首府・清須から天下取りがスタートするのである。この清須城は東西1.6km、南北2.8kmにもおよぶ巨大な城郭をもち、その城郭の内部に城下町としてのあらゆる機能を備えた城塞都市へと発展した。
信長は尾張1国の大名に満足しない。気持ちは西へ(京制圧の野望が強まる)。まずは小牧城へ入城した。その後、美濃齋藤家を粉砕して同地域を占有する。その証として当時の稲葉山城へと拠点を鞍替えした(現在の金華山岐阜城)。信長は東を決して眺めなかった(普通ならば濃尾平野の雄大さに酔いしれるだろう)。西をのみ展望したのである(岐阜から130km先には京がある。必ず上洛して制圧すると誓ったのではないかと想像する)。
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