中洲の灯は絶えない(5)時代が変わろうとも人間の本質は変わらない「すたんどばーA」作野士郎氏
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中洲4丁目に「すたんどばーA」を構える作野士郎氏は、1942年に博多区春吉で生まれ育ち、中洲は子どものころ、友達と走りまわっていた「遊び場」だったと語る。そんな子供時代を過ごした作野氏だったが、中学1年生の時、父が急逝してしまう。突如、一家の大黒柱を失った作野家の家計を支えたのが作野氏より10歳上の姉だったという。
作野氏は福岡高校を経て、明治大学を卒業。その後、会社勤務、カントリーウエスタンバー経営、三重県での海水浴場の経営を経て、当時、姉と妹が店を経営していた中洲に再び戻ってきたのが28歳のときだった。そして1979年、作野氏40歳のときに「すたんどばーA」の経営を姉から引継いだ。
42年間、中洲の栄枯盛衰を目にしてきた作野氏に「中洲が一番華やかだった時代は?」という問いを投げかけたところ、「オイルショック前の1970年ごろとバブル景気のころでしょうか」という答えが返ってきた。70年当時、新入社員はタクシーチケットを会社から支給されており、それを中洲のホステスさんに配っている姿が印象的だったと語る作野氏。ちなみに当時、新入社員であっても中洲の高級クラブでの飲み食いを会社のツケにできた時代だったという。90年代初頭、バブルが崩壊し、日本経済ならびに中洲の景気は悪化の一途をたどることになるが、幸いなことに「すたんどばーA」への影響は軽微だったそうだ。
中洲について作野氏は「福岡にとって、なくてはならない場所」だと語る。コロナ禍によって、コミュニケーション手段は多様化してきており、中洲の店でも「オンライン営業」を取り入れる店があるという。しかし、作野氏は「オンライン営業はあくまで一過性のもの。中洲はお客さまを癒す場所であり、癒しはオンラインで提供できるものではない。時代が変わっても人間の本質は不変である」とし、「男と女、そして酒がある限り、中洲の灯が消えることはない」と力強く語った。
作野氏は9月までにコロナが終息すれば、これまでの反動で中洲の街に活気が戻り、コロナ前より中洲の景気は良くなるだろう、と今後の見通しを示した。そのうえで「中洲では私より年上の先輩たちが今でも頑張っています。私も生涯現役を貫き、人生の大半を過ごした中洲という街に恩返しをしたい」と自身の今後について語った。
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