『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(8)~公益の祖は本間光丘なり
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上杉鷹山事業成功の影の支え
前号で触れたように庄内藩の妬み根性の幹部から本間光丘は財務大臣役を解任された。徳政令を発されたのである。「従来の借金、借米は富豪・町人・寺院から47年間にわたって利子に利子がかさみ元本の倍以上支払っているから帳消しにする」というものであった。本間家も莫大な被害を受けた。庄内藩の中枢から排除されたとはいえ藩からの都合用立てには従来通り応じていた。また庄内藩の弟格にあたる松山藩の破産寸前の財政改革には大きく尽力したお蔭で、最悪の財政危機からは免れたのである。
1794年、光丘63歳になる。7年後、70歳で没するから晩年時期にあたる。上杉鷹山の命を受けた米沢藩中老から金子借用の打診があった。その中老が酒田までやってきたのである。天明から安政にかけて諸藩の財政窮乏は限界に達しており上杉米沢藩もその例に洩れず四苦八苦の状態であった。米沢藩の「融通のお願い」に対して光丘は即決して応じた。と同時に永年、認めてきた殖産振興の政策を提案したのである。結果、この経済振興政策はものの見事に成功したことで歴史的な「鷹山の名君主」の評判が定まったのであった。その陰の功労者が本間光丘といって過言ではない。
最上川流域の経済振興が急速に進む
米沢藩が注力にしていた品物は米・大豆・小豆・煙草・蒼苧・藍玉などである。融資の担保物件として預かったこれらの商品の販売促進を引き受けた。まずは米沢から酒田までの最上川での距離は180キロある。物流量を増やすには河川の整備が必要となる。この工事も光丘は引き受けた。海運に適する河川になれば当然、物流量が増えていく。出荷量が増えれば米沢藩の収入が増大するのは自明のことである。米沢藩の信頼度は高まるばかりであった。
光丘の偉大であったのは自分で独占しなったことである。最上川流域で営んでいる商人たちへ「それぞれの地元の名産を上方へ送りだそう」と呼びかけたところ、同志たちが集まってきた。そうなるとターミナル基地・酒田の存在価値は高まるばかりである。上方への流通ルートは一方交通ではない。上方から古手(古着)や染物、金物などを仕入れて卸販売をした。生活用品の普及が進むと様々な職域が拡大されてくる。
本間家の役割は、現代流にいえば最上川ルートを仕切る総合商社である。日本海交易ルートの交流量が増えるほどにその玄関口・港酒田は繁栄を極める。その勢いへ最上川流域の地域へ経済効果が普及しその最終地域米沢の隆盛に役に立ったといえるだろう。皮肉な表現をすれば地元・庄内藩との縁が薄くなったことで腐れ縁から断ち切れた。その代り山形県のほかの米沢藩や新庄藩等々との関係が深まりそのお蔭で大きく羽ばたけたのである。
現代の信用組合づくり
本間光丘のことを学ぶほどに、徳川封建体制のなかでいかに貨幣制度が広く浸透して豪商の役割の重要性を認識することになった。危機の煮詰まりから体制の転覆まで発展することがよーくわかった。その渦中で光丘は様々な功績を残している。現代流にいえば「信用組合」の基礎も構築しているのだ。それは商人仲間の事業資金積立資金のシステムである。専門的には「酒田町雑用銭引足元立銭」と呼ばれるものだ。
まず光丘が廻船問屋仲間に提案し、1,250両を出資するように働きかけた。取り決めごとの大綱は(1)それぞれの力に応じて出資額を負担する。(2)この基金から融資を受けて事業を行う。(3)押しつけにならないリーダーシップ。(4)商人の育成=本間グループの形成を図るである。商人の絆を高めるための「基金制度」である。光丘の功績の一端を下記に紹介するが、まさしく「公益の祖=本間光丘」という評価は100%正確である。
(つづく)
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※なおこの項のシリーズ(公益の祖は本間光丘なり)は発行/酒田まちづくり開発「酒田に本間光丘あり」を参考にした。
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