123便を高天原山に誘導したのは誰?
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NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は、日航ジャンボ機123便墜落事故について「ボイスレコーダーもフライトレコーダーもデータ開示を拒否する理由がない。開示を拒否するのは『不都合な真実』が明るみに出るためだ」と訴えた8月11日付の記事を紹介する。
36年前の1985年8月12日午後6時58分、群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)の尾根に日航ジャンボ機123便が墜落した。墜落したのは御巣鷹山でなく高天原山。
36年の歳月が流れた。ジャンボ機墜落は事故でなく事件であった疑いが強い。ジャンボ機に外部から何らかの物体が衝突。そのために垂直尾翼が失われた。事故機は横田基地への着陸が可能であったと思われる。しかしながら、横田への着陸が認められず、群馬県山岳地帯に誘導されて墜落した。
墜落直後に墜落地点は確認された。直ちに救助活動が行われていれば多数の人命が救われたと考えられる。ところが、捜索隊が墜落現場を確認したのは、墜落から10時間半が経過した13日午前8時半ごろだったとされた。空白の13時間半がある。
事故当時に横田基地に配属されていた米空軍の輸送機C‐130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉の証言がある。95年8月27日付「星条旗新聞」(Stars and Stripes)に掲載された記事が明らかにした証言。
「当機は、日が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。
御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2,000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、辺りがだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は午後7時20分だった。
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2,000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。
横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしていることを聞いた。1時間で到着できただろう」。
「当機は午後8時30分まで旋回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。午後8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。我々に、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。将校は『直ちに基地へ帰還せよ』『日本側が向かっている』といったので『司令部、海兵隊は救助続行を希望している』といったが、『繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様』と命令された。私は『了解。基地に帰還する』と応答した」。
C‐130は午後9時20分に、最初の日本の飛行機(自衛隊機)が現れたのを確認して現場を引き揚げた。
墜落直後の状況を123便に搭乗していたJAL客室乗務員の落合由美さんが証言した。
「墜落の直後に、『はあはあ』という荒い息遣いが聞こえました。1人ではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。周りの全体からです。『おかあさーん』と呼ぶ男の子の声もしました」。
※続きは8月11日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「123便を高天原山に誘導したのは誰?」で。
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