2024年11月23日( 土 )

本田宗一郎のDNAと決別~「エンジンをつくらないホンダ」はどこへ行くのか(後)

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 ホンダ(法人名:本田技研工業(株))は、創業者・本田宗一郎の「エンジン一筋」のDNA(遺伝子)と決別する。本田宗一郎のDNAを引き継ぎ、長年、ホンダが挑戦してきた世界最高峰の自動車レース、フォーミュラ・ワン(F1)から撤退。2021年が最後のレースとなった。撤退の理由は自動車用エンジンをつくらないからだ。

モノづくりの真骨頂を示す名言の数々

 通産省の圧力に屈して自動車の製造を断念していたら、後のホンダはなかった。モノづくりを規制し、人間の自由な創造力や可能性に国家権力が介入する、そのことが宗一郎には絶対に許せなかった。モノづくりの真骨頂を示す逸話が残っている。有森隆著『仕事で一番大切にしたい31の言葉』(大和書房刊)に載っている。

 86年、ホンダのターボエンジンのF1での圧勝ぶりを面白く思わないFISA(現・FIA)は熱効率の高いターボエンジンを禁止し、自然吸気エンジンのみのレースに移行するとの決定を下した。これに憤慨したターボエンジンの開発技術者で、F1チーム監督の桜井淑敏らが宗一郎に直訴した。このとき、宗一郎はこう言った。

 〈「ホンダだけがターボ禁止なのか?違うのか、馬鹿な奴等だ。ホンダだけに(ターボを)規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンをつくるのにな。で、なんだ、話ってのは?」「いいです、何でもありません」と桜井。桜井ら技術屋たちは、宗一郎の言葉に発奮して、世界最強・最速のエンジンを完成させた〉

 ホンダ以前の日本車に対する評価は「欧米のまねをしてうまくつくった」との域を出なかった。ホンダの車が登場して初めて、世界はその独創性を高く評価した。

 実際の経営は藤沢武夫という希代の経営者が担い、本田宗一郎はエンジン一筋だった。

 本田宗一郎は、モノづくりの要諦をこう言い切っている。

〈何千でもいいから、お釈迦になってもいいから、つくることだね。もったいないようだけど、捨てることが、一番巧妙な方法だね。捨てることを惜しんでいる奴は、いつまでたってもできないね。物を苦労してつくった奴ほど強い奴ほど強い奴はないね。物をつくったことがない奴は、皆だめだね〉

創業事業のエンジンをあっさり切り捨てていいのか

エンジン イメージ    創業事業が時代に合わなくなることはよくある。

 19年11月10日、天皇陛下の即位を祝うパレート「祝賀御列の儀」があり、天皇・皇后両陛下の乗るオープンカーには、沿道からスマホが向けられた。一昔前ならカメラの放列だっただろうが、今はスマホにとって代わった。写真はカメラではなくスマホで撮ることに代わった象徴的な光景だった。

 それでは、カメラを創業事業とする企業はカメラの生産から撤退するだろうか。

 キヤノンは1933(昭和8)年、カメラ好きの3人が「ライカに負けないカメラをつくろう」とビヤホールで気勢をあげたことにはじまる。内田三郎、吉田五郎、御手洗毅の3人である。「大胆とおうか、無謀といおうか、今考えるとぞっとする」と御手洗は、後に回想している。

 カメラを創業事業とするキヤノンは、事業の多角化に成功し、国際的な優良企業となった。今や、写真はカメラではなくスマホで撮る時代になったから、カメラから撤退するだろうか。そんなことはない。

 ホンダが創業事業のエンジンから撤退するのは、キヤノンが創業事業のカメラから撤退するのと、同じことだ。

 本田宗一郎のエンジンは、ホンダの太陽であり象徴であり続けた。「選択と集中」の経営理論に基づき、創業事業のエンジンの開発から撤退するのは、理解が困難だ。ホンダはどこに向かうのだろうか。

(了)

【森村 和男】

(中)

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