呉服専門店「さが美」争奪戦が勃発。2つの投資ファンドのトップの素性(後)
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アスパラの中村社長は、元日本航空の管財人職務執行者、会長補佐
さが美争奪戦の2つのファンドのトップは、その世界の有名人である。
アスパラントグループ社長は中村彰利氏。1958年生まれ。米コロンビア大学でMBA(経営学修士)を取得、日本と米国で弁護士資格を持ち、米金融機関のシティバンクに勤めていた。その後、シティバンクでの上司で、後に(株)新生銀行(旧・(株)日本長期信用銀行)社長となる八代政基氏に誘われ、99年に米投資ファンドの(株)リップルウッド・ジャパンに移籍した。リップルウッドは日本長期銀行の買収で巨額の利益を得てハゲタカファンドの代名詞になった。
ここから中村氏のファンド人生が始まる。とくに宮崎県との関係が深いのが特徴だ。まず、リップルウッドが買収したフェニックスリゾート(株)(宮崎シーガイア)の代表取締役。03年、官製ファンドの産業再生機構常務に就任。さらに再生機構が支援した宮崎交通(株)とスカイネットアジア航空(株)(現・(株)ソラシドエア)の代表取締役を務めた。再生機構解散後は、コールセンター最大手、(株)ベルシステム24(現・(株)ベルシステム24ホールディングス)の会長兼最高経営責任者(CEO)などを歴任した
09年12月、再生機構の後継の官製ファンドの(株)企業再生支援機構の専務に就任。実質的な最高執行責任者(COO)である。支援機構は会社更生法を申し立てた(株)日本航空に3500億円を出資して再生を支援。支援機構から日航に派遣された中村氏は10年12月、管財人職務執行者、稲盛和夫会長の補佐を務めた。日航が上場に向けた新体制への移行に伴い、12年2月に中村氏は退任。支援機構も退いた。
12年10月、投資ファンド、アスパラントグループを設立して社長に就いた。ニューホラの安東氏は三菱自動車の投資で名を挙げる
一方、ニューホライズンキャピタル社長は安東泰志氏。1958年生まれ。東京大学経済学部卒、シカゴ大学経営大学院でMBA取得。81年、(株)三菱銀行(現・(株)三菱東京UFJ銀行)に入行。90年代は東京三菱銀行ロンドン支店を舞台に、英国や欧州の多数の私的整理、企業再生案件を手がけた。帰国後の98年からは投資銀行企画室次長を務めた。
2002年、三菱東京UFJ銀行系の投資ファンド、フェニックス・キャピタル(株)を設立、代表取締役CEOに就任した。ここで手がけた最大の案件は、04年にダイムラー・クライスラーの支援打ち切りで経営危機に陥った三菱自動車工業(株)だ。東京三菱UFJは、資本増強策を柱とする再建計画を立て、三菱御三家を中心とする三菱グループ各社が優先株による増資に応じ、さらにフェニックスは普通株、JPモルガンが優先株での増資に応じた。フェニックスは出資比率33.1%の筆頭株主となった。
三菱自動車が大量の優先株を発行して資金を調達するにあたって、金融関係者の間では「ハゲタカファンドに食い物にされる」と懸念する声が上がったが、それが現実のものとなった。
フェニックスが保有する普通株がJPモルガンに貸し出され、それが海外の投資家やファンドの手に渡り、そのほとんどがカラ売りに出された。これで三菱自動車の株価は急落。JPモルガンは優先株を普通株に転換。すぐに転売して売却益を手にした。
貸し株で株価を引き下げて転売する手口はありふれた手法である。だが、筆頭株主であると同時に、そのトップが社外取締役で、しかも事業再生委員長を務めるフェニックスが、三菱自動車株のマネーゲームに加担していたのだ。三菱自動車から「フェニックスは信義に反する」という批判する声が上がったのも無理はなかった。東京三菱UFJ銀行と三菱自動車との関係を悪化させた安東氏は、フェニックスを追われた。そして06年10月、ニューホライズンキャピタルを設立して、会長兼社長に就いた。
安東氏は、切った張ったのマネーゲームの修羅場をくぐり抜けてきた強者(つわもの)。官製ファンド育ちの中村氏を与し易しと踏んで、さが美の買収合戦に参戦したのだろう。どちらが勝利するか、けだし見物である。(了)
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