2024年09月15日( 日 )

日本は「食えなくなる」のか?(前)

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時代は変わる

耕作放棄地 イメージ    「隣百姓」という言葉がある。平たくいえば、他人のすることに倣い、それに合わせて物事を行うという我が国の国民性を表す言葉だ。

 併せて考えたいのが、同調性、正常性のバイアスだ。実は極めて悲観的な環境下にあるにもかかわらず、皆が行動を起こさないのだから大丈夫だという危機感と主体性の欠如である。これも我が国の国民性だ。疑うことを知らないから、危機予測やその対処に関する事前準備にも大方、無頓着だ。

 島国で、同一民族、比較的温厚な性格。さらに数千年の稲作の歴史がこれらの国民性をつくり上げたのだろう。「由らしむべし、知らしむべからず」。為政者のそんな思考も悪い意味ではなく、統治者は民に対して安心、安全を提供するのがその責務だということを表しているともとれる。

 しかし、時代とともに思考も環境も変わるのが歴史の事実だ。その変化も長い間かけて大きくゆっくり変化するものと、短期間で急激なものと多様である。

かつて「配給」という制度があった。

 風薫る月、佐賀平野では豊かに実った麦が初夏の日差しの中、取り入れの季節を迎えている。その佐賀平野生まれの山口良忠という人の名を聞いたことがあるだろうか?裁判官だ。1947年、彼はあることが原因で亡くなった。

 戦後70年を過ぎて、米穀配給通帳を知る人も少なくなった。もちろん、食糧営団という言葉を実際に体験した人も同じだ。しかし、団塊の世代以降の少なくない人は米屋にお金だけをもって買いに行ってもコメを売ってもらえなかったことを記憶しているはずだ。1人あたりのコメの消費が国によって制限されていたのだ。

 1921年の米穀法を皮切りに、我が国では太平洋戦争直後まで主食のコメの供出や価格を統制する法律を複数作ってきた。その理由はコメを自由市場に任せているとその供給に大きな問題が発生するという事実を強く認識していたからだ。いわゆる「米騒動」の類である。

 太平洋戦争によって食糧事情がひっ迫すると、42年、東條内閣が米麦類を集中的に管理、販売する罰則付きの供給体制が敷かれた。そして、この法律は戦後の混乱と天候不順などもあって55年に景気の好転とコメの豊作を契機に供出制度が廃止されるまで、生き残っていた。

 先の山口判事は国の法律の下、それを守り47年に栄養失調で死亡した。いわゆる餓死だ。

 当時、正規米のほかにヤミ米という裏のコメ流通があった。価格は配給価格の10倍以上が普通だったが、国民の大多数がそれで命をつないだ。

 パンがなければコメを食えばいい。笑顔でそういう人が少なくない。いま、コメの価格は10kg当たり概ね2.000円前後だ。現在、1人あたりの年間消費量は50kg程度だから、年間1万円ということになる。それが米中心の主食となると、年間100kg、2万円。生産も現在の2倍に増やさなければならない。それはいいとして、価格はどうなるのだろう。モノが不足すれば価格は上がる。先のヤミ米がいい例だ。10倍になれば、支出は10万円になる。世帯支出に直すと20万円を超える。今の年間食費家計支出の25%を占めるということになる。現在のエンゲル係数は20数%だか、それが倍になれば収入の半分が食費で消えることになる。それはそのまま、他の分野への支出の減少となる。

 問題はまだある。売れないものはつくらないというのが資本主義の基本だ。長く消費低迷が続くコメの生産はその面積、従事者も減少の一途だ。もちろん、それはコメだけではない。農林水産の広い分野で同じような状況を見ることができる。

 我が国の食を担う農業人口は今や130万人を切ろうというところまできている。ピーク時の10分の1だ。しかも高齢従事者が少なくない。他の一次産業も同じだ。

 戦後、「代用食」という言葉があった。団子やイモ、うどんなどコメの代わりの主食を表す言葉だ。家庭によってはそれすらままならず、栄養不足でいつもアオ鼻を垂らした欠食児童といわれる子どもも普通にいた。

 地方の大規模小学校でも給食のないケースは少なくなかった。アメリカから供給される200Lのドラム缶に入った脱脂粉乳をお湯で溶かし、それをアルミの大皿に入れたものが供されるだけだった。たまにビタミン補給の肝油が配られることもあった。極めて貧しい食の環境は戦後十数年続いた。

 その後、アメリカの経済援助や自助努力に加えて、朝鮮半島やインドシナ半島の戦争特需による外的要因も景気に寄与し、国内産業の復活発展とともに順調すぎる不動産の値上がりが寄与して、飽食とグルメの時代がやってきた。

 しかし、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた経済的頂点もバブルが崩壊し、その後、ジワリと消費も生産も後退し続ける感は否めない。造船、家電、カメラ、半導体の分野に今や昔日の面影はない。それとともに国内の景気停滞が固定化し、現在もそれが続いている。

 考えてみれば、国民が総中流意識をもち、大いなる繁栄という飢えとは無縁の暮らしのなかにいたのは極めて短いということだ。

(つづく)

【神戸 彲】

(後)

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