2024年11月26日( 火 )

日本電産「永守独裁体制」の行方 大番頭が社長就任(前)

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 「お山の大将 おれ1人 あとから来るもの つきおとせ ころげ落ちて またのぼる 赤い夕日の丘の上」(西条八十作詞「お山の大将」)。日本電産の「お山の大将」である永守重信会長は、スカウトしてきた後継者を次から次と「つきおとし」てきたため、誰もいなくなり、「子分」の大番頭をショートリリーフに据えた。永守独裁体制の行方を占ってみよう。

日産出身の関潤社長が辞任

モーター イメージ    モーターメーカー大手の日本電産(株)は9月2日、社長兼COO(最高経営執行責任者)の関潤氏(61)が同日付で辞任し、小部博志副会長(73)が3日付で就任する人事を発表した。

 各社の報道によると、オンライン形式で記者会見した創業者の永守重信会長兼最高経営責任者(CEO、78)は、「(関氏に)経営手法を学んでくれと頼んだが、だめだった」「社員よりもっと良いのが外部にいるんだという思い込みがあった」と、自らの判断が「間違いだった」と強調した。

 小部氏については、「営業の大きな案件のすべてを担ってきた大番頭。これまで番頭は表に出るべきではないと固辞されてきたが、創業50周年を前に最後にやってくれとお願いした」と語った。

 永守会長は、関氏に代わる本格的な後継者を社内から選ぶ方針を表明した。2023年4月に社内から副社長5人を選抜。そのなかから1人を24年4月に社長に起用するとしている。

関氏はわずか1年でCEOからCOOに降格

 関氏は日産自動車(株)でナンバー3にあたる副最高執行責任者(副COO)に就いたが、格下だった内田誠氏が社長兼CEOになったのが不満で、20年1月、永守氏に招かれて日本電産入り。翌21年6月に永守氏からCEOを継承した。永守氏によると「3度目の正直」。「ようやく後継者にめどがついた」とみられていた。

 だが、半年もしないうちに、「永守・関不仲」は公然の秘密となった。今年1月25日、米ブルームバーグ通信が「永守会長が、関潤社長に失望感」のタイトルで2人の関係にひびが入ったことを示唆する記事を配信。日本電産株は翌日、一時、5.3%急落した。

 これに怒った永守氏は翌日の決算発表の記者会見で、「三流週刊誌のようなところが書いたことを信じる人は、ドンドン株を売ればいい」と強気だったが、CEO交代は現実のものとなった。

 日本電産の22年3月期の業績は、過去最高を更新した。だが、関社長がCEOを兼務した21年6月に1万2,000円を上回っていた株価は、世界的な半導体不足の影響などで、今年4月には8,000円台に下落。永守氏が「耐えられない水準だ」と苛立ちを募らせ、4月21日、関氏を就任1年足らずでCEOから「降格」させ、永守氏自身がCEOに復帰した。

 関氏が辞めるのは「時間の問題」。関氏の退任は、誰もサプライズとは思わない。

スカウトした後継者が次々に辞めていく

 永守氏は、後継者を外部から招いたが、多くが短期間で職を辞した。

 13年には日産系部品メーカー、カルソニックカンセン(株)(現・マレリ(株))元社長・呉文精氏を副社長に招いたが15年に退社。

 シャープ(株)の社長・会長を歴任した片山幹雄氏は14年に入社。副会長に就任し、社長候補と見られていたが、21年に副社長に降格され退任した。

 日商岩井(株)(現・双日(株))、日産を経て15年に入社した吉本浩之氏は、18年6月に初めて永守氏以外の2代目社長に昇格したものの、副社長に降格、21年に退任した。

 片山氏と吉本氏の退任は、関氏を社長兼CEOに据えるためだったが、その関氏もCOOに降格、結局、辞めた。

 永守氏がヘッドハンティングした後継者候補たちは、「あとから来る」ものとして、「お山の大将」から「つきおとされた」。

 永守氏は採用した人間に対しては、「叱って、怒鳴って、ボロクソ言って、皆の前で恥をかくことによって、闘争心や反発心を呼び起こす」方法で人材を育てた。「ころげ落ちて またのぼる」人材だ。

 「永守氏は、自分のような叩き上げしか信用していない。一流大学を出た大企業出身のエリートを後継者に招いたが、彼らは永守氏からボロクソいわれることにプライドを傷つけられた。所詮は、水と油。永守氏のお眼鏡にかなうわけがなかった」。日本電産OBの評だ。

「一番以外はビリ」が信念

 永守氏は1944年8月、京都・向日市で農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。男の兄弟3人は中学を終えると就職したが、学業成績が抜群だった永守氏は京都市立洛陽工業高校電気科への進学を許された。家庭の事情から大学進学は頭になかった。松下電器産業(現・パナソニック)への就職を決めた後、中学の同窓会に出ると、「あんなデキの悪かったヤツらが皆大学へ行くと話している」のを聞いてショックを受けた。それで進路を変更、東京の職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科に進んだ。

 「一番以外はビリが信念。二番でいいという考え方はダメ。ヤクザでもいい。ラーメン屋でもいい。とにかくどんな仕事でもトップになる」。

 お山の大将でなければ気が収まらない永守に、宮仕えができるわけがない。卒業後、ティアックに就職したが上司と喧嘩。転職した山科精機では社長と衝突。

 親分肌の永守氏は職業訓練大学校の3人の後輩を引き連れて退社、京都・桂川のそばの30坪の染物工場の跡を借りて小型モーターづくりを始めた。73年7月、永守氏、28歳のときである。

(つづく)

【森村 和男】

(後)

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