DHC創業者、「ヘイトスピーチ」でバッシングを浴びる オリックスへ身売り(前)
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「物言わぬは腹ふくるるわざ」という。とはいえ、何んでもかでも思ったことをいえばいいということでもない。「物言えば唇寒し秋の風」という諺がある。「物言う」とは、もっぱら他人を批判すること、文句をつけること。物を言った人間は反感や恨みを買うことになる。DHCがオリックスに身売りした。創業者の吉田嘉明会長の「ヘイトスピーチ」が社会的なバッシングを浴びたからである。
オリックスが3,000億円でDHCを買収
オリックス(株)は、化粧品・健康食品大手(株)ディーエイチシー(DHC、東京、非上場)の過半数の株を保有する創業者、吉田嘉明会長兼社長から事業承継というかたちで全株を譲り受け、同社を子会社化する。残りの株も既存株主から買い取る方針で、買収総額は3,000億円程度に上る見通し。事業承継にともなう買収額としては過去最高とみられる。
株式譲渡は2023年3月までに完了予定。オリックスは役員を派遣し、吉田氏は退任する。買収後も商品ブランドなどは維持する。オリックスが開示したDHCの3年間の経営成績は次の通りだ。
22年7月期の売上高が20年7月期に比べて大きく落ち込んだことは後で説明する。とはいえ、売上高営業利益率は18.4%。DHCは文句なしの高収益企業である。純資産は1,208億円。オリックスは純資産の2.5倍の3,000億円で買収する。
DHCの業績は好調だ。では、なぜオリックスに身売りしたのか。
創業者の吉田嘉明会長兼社長が、「ヘイトスピーチ」で社会的なバッシングを浴びたからだ。ヘイトスピーチとは、特定な国の出身者であること、または、その子孫であることのみを理由に攻撃し、日本社会から追い出そうとする言動のことだ。
この吉田氏とは何者なのか。朝鮮生まれ、唐津市育ちの立志伝中の人物
吉田嘉明氏(81)は1941年1月31日、日本統治下の朝鮮で生まれた。父親は農林省から朝鮮に派遣された役人だった。敗戦後は、父親の故郷である佐賀県唐津市に引き揚げた。唐津の小学校・中学校から福岡の西南学院高校を経て、65年京都の同志社大学文学部英文学科を卒業。66年に英検1級・運輸省通訳案内業国家試験に合格後、通訳業に携わる。
72年、大学翻訳センターを創業。大学の研究室を相手に洋書の翻訳委託業を始めた。75年に株式会社組織に改組し、株式会社ディーエイチシーとなる。DHCは、大学翻訳センターのローマ字表記の頭文字からとった。
80年に化粧品の販売、83年に基礎化粧品の販売を始めた。現在直営店202店、通信販売会員1,569万人を擁する企業に成長。美容・健康食品通販売上のトップである。
吉田氏は、通販業界の立志伝中の人物である。
何が、吉田氏の躓きの石となったのか。「政治」である。渡辺喜美議員に「8億円貸した」と告発
それまで無名だった吉田氏が一躍脚光を浴びたのは、2014年3月26日発売の『週刊新潮』に手記を掲載したことだった。
吉田氏はみんなの党の渡辺喜美代表に対し、10年の第22回参議院議員通常選挙および12年の第46回衆議院議員総選挙の直前に、計8億円を「選挙資金として貸した」ことを公表した。選挙運動費用収支報告書や政治資金収支報告書に、この8億円は記載されていなかった。
手記を受けて、渡辺氏は同年3月31日、「今回の騒動の本質はみんなの党から分かれた江田憲司氏の結の党が仕掛けた権力闘争」とするコメントを発表。「吉田会長は私に代表辞任・議員辞職を迫ってきている」としていた。
これについて吉田氏は、「3つある予算委のポストを、みんなの党が頑として1つも手放さないということから、結の党の議員がテレビでの発言権を一切封じられ、困り果てているということを知り、義侠心から手記を発表した」とコメントしている。
渡辺氏は「8億円問題」が命取りとなった。政治生命が絶たれ、最終的に議員辞職に追い込まれた。吉田氏は「渡辺議員の首をとった男」として名を高めた。
(つづく)
【森村 和男】
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