2024年11月06日( 水 )

溶けて溶けてどこへ行くの? 我々には覚悟はあるか(9)~巨星堕ちる・ソロン田原学氏(4)

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長崎西部の漁村でしかなかった福田地区

 4月2日、長崎市に飛んだ。稲佐山の西部にある福田という集落である。目的は、かつて田原氏が手掛けたコアマンションマリナシティ長崎視察のためであった。
 「稲佐山の下にトンネルができる」という情報を耳にした田原氏は地図を広げて福田地区を眺めた。「長崎駅からも市街中心部からも近くなるな。これは便利なるゾーンだ。この福田地区で勝負しよう」と決断したのが1998年だったと記憶する。

 福田地区の歴史を少し触れておこう。元々、長崎県西彼杵郡福田村であったが、1955年1月1日に長崎市に編入された。角力灘に面した漁港があり、かつては漁獲された魚を長崎市内に販売していたらしい。1955年当時の福田地区は長崎市民から見れば「西の果て」というイメージを抱かれていたようだ。当時の人口は3000人。最近は1万人を超えるほどの人口増になっている。

 昔に遡ると、貿易のための寄港地として古い歴史を持っている。1565年、南蛮貿易でポルトガルの寄港地として開港した。だが外部(東シナ海)に面していたことで強い西風の影響を受けるため、「港としては不向き」と烙印を押された。よって、港の拠点は口之津港へ移った。さらに1571年には長崎港開発が進み福田地区の物流港としての役割は終わった。ただ寒村の漁港として命を永らえてきたのだ。長崎が都市として拡大をするにつれて、ようやく福田地区にも光が当たりだした。

新興大型団地として脚光を浴びる福田地区

 地図を参照されたし。それほど高くはないが、東側に稲佐山が君臨していることで、長崎中心部と福田地区が遮断されている。かつて、福田地区への道路交通は稲佐山の裾を南回りして三菱造船所を見ながら大きく迂回しなければならない難所であった。道幅も片側一車線で狭く、所要時間は長崎駅から車で50分前後であったとか。交通不便で難儀であっただろうと同情する。
 そして地図を参照すれば明確にわかるが、稲佐山の南下をトンネルが開通している(国道202号線を東にたどるとあらわれるグレーの部分)。住民念願の日がやってきたのだ。筆者が自分の車で運転して測った、長崎駅と福田間の所要時間は15分から20分であった。距離にして「13キロくらいかな」という感じである。利便差が向上すれば居住地区としての魅力が10倍にアップする。田原社長が食指を動かしたのは当然である。

 弔辞でも触れたように「稲佐山の下をトンネルが貫通する」ことを耳にした。「勝負できる」と判断して間入れずに田原氏は現地へ飛んだ。そして岬の突端に立って夕焼けの美しさを眺めて感動した。成功すると確信を持てたのである。
 田原氏は、まさしく福岡飛行場に面した青木地区の土地を買い占めたのと同じ行動を展開した。地元の不動産屋さんは「福岡からおかしな業者がやってきて岬突端の土地を買い漁っている。奇妙な奴らである」と嘲けり笑ったらしい。

 事業計画は、リスクヘッジのためにユニカ緒方寶作社長と共同事業とした。この頃が田原氏と一番、仲が良かった時だ。一瞬にして7棟660戸のマンション集落が誕生した。この団地を現在、コアマンションマリナシティ長崎という呼び名にしている。現地に立ってはじめてわかることばかりだ。海に面しておりリゾート風の味わいを満悦できるメリットもある。鄙びた寒村漁港というイメージが定まっていた地域が一夜にして新興マンション街として再生されたのだ。
 一気呵成に完売とはいかなかったが、何せ価格が安い。長崎地区の所得水準から判断しても、購入者には安い感覚を与えたらしい。現在660戸のマンション団地の周囲にはスーパーなどの小売店が立ち並び、外食店も出店している。趣味・習い事の業者も進出しているから日常生活には困らない。今や福田地区はニュータウンのモデルとして見本になっている。

 トンネル一つが貫通すると、これだけ様変わりするのである。このビジネスチャンスになるという嗅覚は田原社長の先天的な天才技なのだ。福田地区は田原手法が遺憾なく発揮された成功の部類になった。地元の人たちでは誰も考えつかなかった発想であった。地元トップの建設業者の社長が「ソロンの田原社長のような企画力のある経営者は長崎には一人もいない。地元の不動産を他所のマンション業者から付加価値をつけて転売されるのはしょうがない。正直、福田地区があのような活気あるニュータウンになるとは想像できなかった」と感服していたことを5年前、耳にしたことを思いだした。

 
(9・3)
(9・5)

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