2024年11月23日( 土 )

長崎市の世界文化遺産、明暗分かれる海底炭鉱の島~軍艦島と北渓井坑

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 7月5日に世界文化遺産への登録が決定した「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」。8つの構成資産がある長崎市では、「軍艦島」こと長崎市端島を中心に見学者が増加。上陸見学ツアーは、予約が殺到し、数カ月先まで空席を探すのが困難な状況になっている。一方、端島と同じく海底炭鉱の島である長崎市高島町の構成資産「北渓井坑(ほっけいせいこう)」の状況はどうか。現地を訪れた記者が目にしたのは、「軍艦島」と比べるまでもない、閑散とした状況だった。

世界文化遺産を独り占め?

取材時の「北渓井坑」の様子<

取材時の「北渓井坑」の様子

 英国商人トーマス・ブレーク・グラバー氏が西洋技術を用いて開発した「北渓井坑」は、日本初の蒸気機関による巻揚機や、入気・排気の構造が導入され、その技術が端島、筑豊、三池などの他の炭坑へ伝わり、急速な近代化を支え得る出炭量の増加につながったとされている。すなわち、「北渓井坑」は、「明治日本の産業革命」における「出発点」。そのストーリーを語るうえでは、欠かせない存在と言える。

 記者が現地を訪れたのは、世界文化遺産登録の熱狂が冷めやらぬ7月16日。高島港でレンタルした電気自動車を5分程度走らせ、「北渓井坑」に到着した。付近には人の気配はなく、もちろんガイドもいないが、案内板の説明に従い、携帯端末からWiFiに接続すると説明動画が視聴できるようになっていた。何も示すものがなければ、「井戸」と言われてもすんなり信じてしまいそうな「北渓井坑」だが、現代の技術を用いた無人化対応により、世界文化遺産の構成資産を独り占めできるという貴重な体験を満喫できた。

 「世界文化遺産に登録されたことは嬉しいが、今の状況では、正直、胸を張って見学に来てくださいとは言いづらい」とは、地元の声。「北渓井坑の近くには、グラバーさんの別荘跡もあるが、景色はいいものの、長く滞在できるようにはなっていません。その別荘を復元するとか、高島炭鉱のシンボルであった二子竪坑櫓など、一般の観光客にもわかりやすいものがあればいいんですが」と続く。高島に寄港する軍艦島見学ツアーの船もあるが、見学者を港近くの石炭資料館を案内するも「北渓井坑」までは行かない。加熱する「明治日本の産業革命遺産」人気のなかで、置いてけぼりの感さえある。

別荘跡にあるグラバー氏の銅像<

別荘跡にあるグラバー氏の銅像

 端島を併合した1955年、高島町は人口約1万7,000人で日本一人口密度の高い町であった。しかし、閉山後、人口は激減し、2005年に長崎市へ編入される直前には、逆に全国で最も人口の少ない町となる。今年6月末の時点で人口413人となっているが、それは住民票で数えた数であり、「実際に島にいるのは300人台ではないか」と言われている。また、閉山にともない、人々が暮らしていた住居施設はほとんど取り壊され、当時の風景はまったく残っていない。廃墟として当時の風景を残す端島に比べて、今の高島には、炭鉱時代の様子をわかりやすく伝えるものは少ない。

 そのようななか、高島炭鉱の歴史的意義を重んじる民間有志が、1986年の閉山前後を記録した写真展を8月16日まで高島ふれあいセンターで開催(詳細は関連リンクを参照)。わかりやすく高島炭鉱のストーリーを伝える企画である。訪れる人に「北渓井坑」の価値が伝わるよう、同センターを管理する長崎市には、惜しみなく場所を提供し、写真展が常設できるよう、協力していただきたいところだ。

【山下 康太】

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