DHC買収と、唐津の名門ホテルに見る戦前日本のインバウンド対応(後)
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日本入国時の水際対策や、国内での行動制限も少しずつ緩和され、観光業の活気が少しずつ戻りつつある。そんな中、オリックスによるDHC買収は、佐賀県唐津市の観光業にも影響を与えることになるかもしれない。また、日本のインバウンド対応の歴史の一端がそこにはあった。
戦前日本のインバウンド対応から生まれた唐津シーサイドホテル
唐津シーサイドホテルは、唐津市の名勝、虹ノ松原の西端に1936年に開業した。ホテルの建設に先立って、地元経済界の努力によって鉄道が開通した。長崎本線につながる唐津線は03年に開通していたが、唐津、伊万里と博多を直結する鉄道が渇望され、地元有志を中心にした出資により、19年に北九州鉄道(株)が設立された。区間を少しずつ延伸し、25年に東唐津と福岡市内を結ぶ鉄道が開通した。
現在の東唐津駅は、松浦川を越えて唐津駅に乗り入れるため、83年に移設され現在の位置となったが、当時は現在の唐津シーサイドホテルの目の前に当たる位置にあった。歴史の順序でいうと、旧東唐津駅のそばに唐津シーサイドホテルが建設されたことになる。ちなみに、旧東唐津駅跡地には現在、ホテル&リゾーツ佐賀唐津(ダイワロイヤルホテル)が建っている。
37年に上述の北九州鉄道は国鉄に買収され、現在の筑肥線となった。北九州鉄道はバス事業を継続したが、これも41年に昭和自動車(株)(現在の昭和グループ)に引き継がれた。一方のホテルであるが、戦後、米軍に接収され保養地となるも、62年に同じく昭和自動車が経営を引き継ぎ、昭和グループに入った。
戦前の日本も外貨獲得等のため、外国人観光客誘致の政策をとっている。12年に公的な任意団体としてジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本語表記なし。公的団体として初めてのカタカナ名といわれる)が設立され、外国人観光客の誘致宣伝のための海外支部の設置や、国内の観光産業の連携と振興の促進が図られた。
国際的な情勢として、とくに20年代は世界的に旅行者が急増した時代と言われている。その背景には、18年の第1次世界大戦終結により、大戦中急速に開発と量産化がすすめられた自動車、船舶、航空機等の移動技術が、戦後民間利用されるにおよんで、世界的な旅行者の拡大につながったことや、20年代のアメリカの好景気、大戦に先立つ世界的鉄道網の拡大などがある。
また、東アジアへの欧米観光客増加の要因として、14年のパナマ運河開通によって太平洋航路が北寄りとなり、日本に寄港する船が増えたことや、第1次世界大戦によって戦場となったヨーロッパなどを避けて、東アジアを旅行地として目を向ける欧米人が増えたことなどもある。
世界を移動する人々が拡大していた時代であり、新型コロナウイルスの先例として言及されるスペイン風邪が18~20年に世界的大流行するなど、今日と似た情勢を彷彿とさせる。
戦前の訪日外国人数は、ある資料によると16年頃まで最大2万人までで推移していたものが、17~29年まで2.5~3万人、30、31年は3.5万人、一時落ち込むが、35~37年に4万人を超えてピークとなる。
そんな中、30年代に国策として建設が進められた洋式設備をもった外国人観光客収容施設の1つとして、唐津シーサイドホテルは建てられた。当時の唐津市長であった河村嘉一郎氏が国際観光都市の政策をかかげ、国庫から建設資金を受けたものだ。同時期の市の観光政策の一環として、もう1つの唐津の名勝である鏡山に自動車登山道路も開通されている。
全国で15のホテルが建設され、国際観光ホテルと呼ばれた。そのうちの1つには雲仙観光ホテル(2003年、国の登録有形文化財)もあり、こちらはたびたび改修を行いながら当時の美しい姿を残している。当時の唐津シーサイドホテルは雲仙観光ホテルほど意匠を凝らしたものではなかったようだ。当時の建物は昭和自動車へ譲渡直後の1963年に解体され、上述した旧東館に建替えられた。
訪日外国人は37年の日中戦争勃発によりまた減少する。その後、さらに戦争は拡大していくことになり、外国人観光客誘致としての唐津シーサイドホテルの機能が十分生かされなかったであろうことは想像に難くない。ここにも、常に外的要因に翻弄される観光業の宿命を見る。
(了)
【寺村 朋輝】
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