松下「中興の祖」中村元社長が死去、株主の評価は
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旧松下電器産業、現パナソニックホールディングス(HD)の元社長で、経団連の副会長も務めた中村邦夫氏が11月28日、大阪・守口市内の病院で肺炎のため、83歳で亡くなった。葬儀は近親者で執り行ったが、後日、会社が「お別れの会」を開く予定。
中村氏は滋賀県出身で大阪大学経済学部を卒業後、1962年に松下電器産業に入社。海外の現地法人のトップなどを経て、【表1】の通り、2000年6月に社長に就任した。余談になるが、筆者は1987年4月~93年3月まで山口銀行の大阪支店の課長・次長であり、松下電器産業の山口工場(現・パナソニック(株) デバイスソリューション事業部山口工場)があったことから、同社本社(門真市)の財務部を訪問していた。
中村氏は第6代社長であり、社長就任後初めて迎えた2001年3月期の決算は、ITバブル崩壊の影響で4,000億円を超える最終赤字を計上した。
そのため、中村社長は「破壊と創造」を掲げ、創業者・松下幸之助氏が確立し、長年続いてきた製品別の事業部制を廃止したほか、大規模なリストラを行った。【表2】は中村社長の「破壊と創造」(中村改革)の骨子である。
戦前の昭和恐慌の中にあっても1人も解雇しなかった幸之助氏に倣い、松下で人員削減は「禁じ手」だった。そんな松下で、中村社長は「創業者(松下幸之助)の経営理念以外に聖域なし」と宣言。同社で初となる早期退職を募り、グループ全体で約1万3,000人を早期退職させるなどの構造改革に取り組み、業績を急回復させたため、「V字回復」は中村社長の代名詞となった。
また、07年には経団連の副会長に就任し、日中関係の発展に尽力するとともに、道州制の導入を働きかけたほか、国のIT新戦略や消費者庁新設、知的財産権の保護などの政策提言にも力を入れたという。
中村氏が亡くなったことを受けて、パナソニックHDの津賀一宏会長は、「時代の変化を敏感に察知され、多くの先手となる方向性を示してもらいました。何とかその道筋に沿って経営を進め、創業100周年を迎えることができました。感謝しても感謝しきれない中村さんがこんなに早く逝かれるとは、ことばになりません」とコメントした。
【表3】はパナソニックHDの経営成績推移表である。
中村氏は06年6月に社長を退任し代表取締役会長に就任、12年6月まで務めた。しかし、12年3月期の当期純利益は▲7,542億円と最大の赤字となった。業績回復を次期経営陣に丸投げするかたちで相談役に退いたのがわかる。一部の人たちからは「戦犯中の戦犯」、「人間として劣化した経営者」と批判されている。社長、会長時代に、自らの意に沿わない役員を徹底排除した結果、周囲がイエスマンだらけになったことが、これほどの凋落を生み出した原因であるとも言われている。20年に国内製造業の発展への貢献と国家行政に寄与したことで「旭日大綬章」を受章している。
前述の通りパナソニックHDの津賀会長は、「感謝しても感謝しきれない」と述べているが、はたして、陰と陽の評価に対して、一般株主は中村氏にどのような評価を下すのだろうか。
【(株)データ・マックス顧問 浜崎 裕治】
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