「全国商工会議所観光振興大会2017 in 前橋」に参加して(1)
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富岡製糸場を見る
関東平野は広い。前橋・高崎まで平坦。東京からおよそ200キロは高い山がない。さらに視野を広げると埼玉県東部から一部栃木県南部、そして茨城県全体にかけて平地が広がっている。関東平野は肥沃で平安時代から豊かだったのではないだろうか?とくに江戸時代には大消費地・江戸に納める物資供給で栄えたのであろう。上州地区(栃木県、一部埼玉県)に豊かさを感じた。世界遺産になっている富岡製糸場を視察して、さらにそれを痛感した。
11月9、10日、全国商工会議所観光振興大会2017 in 前橋に参加した。礒山誠二会頭を筆頭に、観光・飲食部会長粥川昌洋氏を含めて総勢14名が視察団を組織しての参加である。羽田に9時55分に着く。そしてマイクロバスで富岡へ向かうのである。首都高速は渋滞で全く動きが取れず、板橋まで1時間を要する。富岡に着いたのが午後1時半。田舎の老舗料亭で食事をとる。蕎麦・ゆず・豆腐類が当地の名物のようだ。
殖産増強のお手本・富岡製糸場
歩いて10分のところに富岡製糸場があった。世界遺産に指定されているこの工場は、明治5年に設立されたものである。テレビなどで富岡製糸場を見ることは幾度かあった。しかし、現地に立ち会わないと本質は掴めない。明治政府のこの工場に対する思い入れの強さが伝わってくる。というよりか富岡製糸場が成功しないと列強との貿易で対抗できる強力な商品がない。輸入超過となれば明治新政府は経済的な破綻を招くことは間違いない。
富岡製糸場は官営でのスタートである。明治新政府にとって産業振興育成政策は緊急の課題となっていた。まずは貿易で稼ぐことが求められていたのである。日本には手作業の絹産業の伝統があった。これを「戦略輸出産業に」と政府は念じていた。そこで立地先の選定に躍起になっていた。上州・埼玉は少なくとも江戸時代には蚕産業が発達していた地域だ。だから原料の集荷は容易である。また輸出港としての横浜港にも近い。地の利・養蚕業の生産地域という条件が揃っていた富岡の地に決定したのである。
話を進める前に富岡周辺を眺めてみると、平坦な土地が広がっていることがわかる。ここに換金できる養蚕業が発達していたことを知るにつけ、豊かな生活を送っていたことが想像できる。またこの地区では、飢饉があったことはあまり記録されていなかったのではないだろうか。江戸時代でも、上州から茨城にかけては農民階層も多少余裕のある生活が保証され、学問にも熱心な伝統が築かれていたようだ。
経済力を反映してか、この地には数多くの篤志家たちがいた。富岡製糸場は国営でスタートしたが,蚕からの材料集めに奔走した事業家たちが数多く活躍した。彼らは富岡製糸場を日本近代化の拠点にしようという使命感に溢れていたようだ。またここを拠点にして全国に製糸業を拡大していく戦略が練られていた。そこで糸女工を全国から募った。彼女らは2年間の勤務を経て各地に戻り、製糸業繁栄の礎である女工育成の担い手になったのである。一挙に全国の製糸場が生産を開始したのだ。
富岡製糸場が明治維新の基幹産業の担い手として輸出で稼ぎ、明治新政府の経済破綻を防いでくれた。この功労の事実を心底、叩き込まれるためには現地に立たなければならない。ガイドの初老の男性も35分間、真剣に富岡製糸場の歴史的な役割を説明してくれた。好感が持てる。上京した際には一度、この富岡製糸場を視察されることをお奨めする。東京駅から1時間30分で行けるはずだ。
(つづく)
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