2024年12月28日( 土 )

傑物・テリー国宗、我が人生に悔いは無し(3)

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アトランタと友好関係を築く

 福岡ドーム内でのコース造りにはまたもや障害が立ち塞がってきた。時間との戦いである。事前搬入一日半、事後の搬出も同様だ。ダンプカー700台を一気にドームへ入れた。ギネスブックものだそうだ。それだけの真砂土を集めるには“生の松原団地造成の残土”を使うしか選択しなかった。
さらに難関が待ち構えていた。日米間のビジネスギャップである。テリー氏は米国人コース設計者と日本側舞台設営者を共に随行させて、事前の準備を行った。ここでも日米のギャップ解消に苦難を極めたがどうにか解決させたとか。「辛酸を舐めたが、今となっては寸暇を惜しみ、日米を泥だらけで走り回っていた思い出が懐かしい」と語る。

 このイベントは重要な成果を残した。アトランタ市との関係である。福岡市と米国アトランタ市の連携市長杯で、アトランタ市の助役も来福した。両市開催のレースが行われて、それぞれの優勝者に各々市長杯が贈られた。これもテリー氏の事前、根回しによるものである。日本側担当者を連れて、オリンピック前年のアトランタ市市長を訪問し快諾して頂いた。よって、両市友好都市の絆を深める事に貢献しているのだ。

キング・オブ・ポップ、マイケル・ジャクソンとの縁も

 この時期に合わせて、アメリカのスター歌手マイケル・ジャクソンの福岡ドーム公演 (2回目)の誘致開催にも同時に尽力したという。この実績が、後にマイケル本人亡きあと、実母キャスリーンと共にマイケル・ジャクソン子供基金(会長が国宗氏)に参画することにつながる。その貢献が評価され、テリー氏へのジョージア国国王最高位勲章授与にもつながっていくのだ。テリー氏は「何もかも人生、全て結果は不思議なものである。自分で当初から狙ったものではないのだが」と振り返る。

日本には当時、猛者がいた

 テリー氏が回顧する。「当時はNHKにも菊池さんという放送局長がおられた。また西日本新聞社には権藤さんという事業局長もおられた。共にプラスマイナスの強い個性がある“日本男児”であった。まさしく猛者である。二人はサラリーマンであった。だが、彼らは案件が難しければ難しいだけ、強い信念と情熱でそれを乗り超えるだけの能力と勇気工夫を持ち合わせていた。今の日本にはこのような猛者達がいない」と残念がる。

 テリー氏の貴重な功績の紹介は尽きることがない。「NHK福岡放送局から全米のESPN(スポーツ専門のケーブルテレビネットワーク)に衛星回線をつなぎ、生中継も実施した。今後も二度とないことだろう」とも語る。テリー氏はビジネスはもちろん、文化の交流と福祉の貢献にもグローバルな実績を有する人物でもある。

「沽券」を学ぶ教育を

 最後に教育に関する発言に触れておこう。「近年の“我が国”のビジネスも含めた文化教育環境、学校関連に限らずの小さな話しではない。特に男子、男性の“沽券”に関わる教育を強化することが重要だ」と力説する。「今回の日本の衆議院選挙でも、全ては自己責任である。自身一度決めたら尚更だ。米国でも他国でもそれは常識である、大半の候補者に理念無く、信念なく、腹も無い。小池さんと言う女性に振り回されて、負ければそれを非難し、当選しても非難する。既にいずれかの他の“虎の威”を探しているとは、なんと嘆くべき悲しい姿か」と喝破する。

 「何故この様な無責任な国になったのか!!ここ30年顕著になってきた。それぞれに自己保身が蔓延している」と嘆く。東芝、 シャープ、神戸製鋼、日産、三菱等の企業の嘘、隠蔽画策は枚挙に暇がない。問題の根っ子は全て同じとみる。「“少年よ大志を抱け”、“友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱”。侠気とPassionが必要不可欠である」と熱く語る

 誰にも人生は一度だけ、男児の沽券に関わる事はすべきではない。テリー氏の人生は、若くして外国に渡り、誰も居ない他国で独立した。日米の架け橋となり、苦難の上に成功して、更に自身老いても「第三国に役立てるように」と、熱い意志と信念を持って現在でも世界を駆け巡っている。2カ月毎にアジアを中心に未だ飛び回っているのである。我々も学び見習いたいものと考える。

 最後にテリー氏は、「福岡という街は大好きだ。今後も、自分自身が役立つ事あれば、残りの人生、是非とも協力したい。また我が人生の最終章として、一男子として生まれ、悔いのないものにして一命を賭したい」と結んでくれた。

(つづく)

<プロフィール>
テリー国宗
1943年香川県高松市生まれ。
1965年京都外国語大学英米語科卒、得意の外国語を生かし京都国際会議場においてOPECや幾多の国際会議の同時通訳を務める。
1979年4月渡米。紙・パルプ専門商社、米国法人“3T  TANAKAYA、INC”をロスに立ち上げる。
1993年、現(株)クニカル・インターナショナル・グループ(本社ロス)を起業。
ソーラー事業、半導体事業を開始。
1993年、現(株)TMB INTERNATIONAL社を起業。エンタメ及びイベント事業の開始。福岡ドームにおいてスーパークロス世界大会を3年間続ける。
1996年12月マイケルジャクソン・ワールドツアーの一環として福岡ドームにおいてコンサートを開催。
2002年キャサリン・ジャクソン(マイケルの母親)を名誉総裁にお迎えして(財)マイケルジャクソン子供基金を内閣府の肝いりで設立し会長に就く。2007年解散。
2007年(株)PPP社設立。半導体製造工場の設計と工場建設業に進出。
2016年 11月15日東京ベイクラブホテルにおいてジョージア(旧グルジョア国)国王から同国最高位の勲章を叙勲する。日本人で初めて。世界の恵まれない子供たちのために尽くした実績を評価されての受勲。

趣味:旅行
免許/資格:日、米同時、逐次通訳官
     日本国経済産業省認定免許書番号 第E-0229号(昭)41
     米国国務省嘱託契約番号:第BOA3819
     南加県人会理事
     南加香川県人会々長

 
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