2024年09月01日( 日 )

知っておきたい哲学の常識─日常篇(2)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

何事も鵜呑みにするな フィードバックが大事

薬剤師 イメージ    学生のころ、ある本を読んでいたらこんな言葉と出会った。「はいと答えるだけではダメ、いいえも言えないと。」

 何事にもウラとオモテがある。オモテだけ聞いて「はい」と答えるなら、「素直ですね」と言われはしても「賢いですね」とは言われない。つまり、素直であるとは愚かであることの裏返しなのだ。

 聖書に「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉があったように思う。素直であるだけではダメで、賢さが必要なのだ。その賢さを蛇にたとえるとは、ずる賢さも含むだろう。人間、素直でありさえすればよいというわけではない、ということだ。

 先日、かかりつけの医師に処方箋を出された。これを飲めば糖尿病にならないといわれた。薬は気休めにすぎないと聞いたことがあるが、処方箋を出されると飲まないわけにはいかなくなる。

 行きつけの薬局に行ってみると、スタッフが変わっていた。新しい顔がふたり。そのうちの1人が薬の説明をしてくれた。二十代後半と見える女性である。

 彼女の説明をひととおり聞いた後、疑問に思っていることを聞くと、少し考えてからこう言った。「一般にはこう言われているんですが」と切り出してから、「個人的には」と自身の見解を述べた。「この人、おしゃべりは上手だけど優等生的だな」と思いつつも、その明快さに感動させられた。

 帰りぎわに聞いてみた。「薬剤師の心得として大事なのは何ですか?」すると彼女、少し考えてからこう言った。「何ごとも鵜呑みにしないことです。書かれていること、言われたこと、それを一度自分の頭でフィードバックさせなくてはいけません。」

 これにはたまげた。言うことなしである。近ごろの若者は覇気がなくなったとか、やる気がないとかいわれるが、こういう人もいるのだ。

 周知のように、「鵜呑み」とは鵜という鳥が魚を丸呑みすることをいう。その鵜のように、言われたことを咀嚼しないで呑み込んでしまうことを「鵜呑みにする」という。「鵜呑みにするな」とは、言われても自分の頭で考えて理解してから行動しろ、ということだ。あの若き薬剤師は、まさにそのことを言ったのである。

 一般に薬剤師の仕事は医師の処方箋を見て、その通りに薬を選んで客に出すことだと思われている。しかし、薬剤師のほんとうの相手は医師ではなく、薬を必要とする顧客なのである。薬は健康のためのもの、病を治癒するためのもの。したがって、命に関わる。

 医師の薬剤についての知識は薬剤師ほどのものではない。薬剤師のほうが薬の効き目や副作用などをよく知っている。そういうわけだから、薬剤師は医師の処方箋を鵜呑みにしてはならない。一度自分の頭で整理し、医師の指定する薬剤が顧客にどのような効果と副作用をおよぼし得るのかを考えるプロセスが必要なのだ。行きつけの薬局の彼女は、それを「フィードバック」と呼んでいる。

 「フィードバック」とは日本語でいう「反芻」である。反芻とは、牛が食べたものを一度元に戻してもう一度食べ、そうすることで消化することを意味する。つまり、先の「鵜呑み」の逆である。

 フィードバックという言葉は前々からあったようだが、これをシステム工学のコンセプトにしあげたのはサイバネティックスで知られるウィーナーである。サイバネティックスとは生物にも機械にも応用できるシステムのことで、それによれば、システムは外部から受けとった情報にそのまま応じて作動するのではなく、情報をフィードバックすることによって、自身の作動を調整するのだそうだ。あるいは、まず作動してみてその結果を得て、それを次回の作動に活かすという仕方もあり、なるほどこれがなければ機械はまともにはたらかないし、生物は環境に適応して生き延びることはできない。

 ウィーナーの功績はこのシステムの考え方を数学的に根拠づけたことにある。これによって物理学と生物学のあいだの距離が縮まっただけでなく、やがて人間社会にもこれが応用され、情報科学やシステム工学さらにはロボット工学の発展に影響をおよぼしたのである。

 フィードバックで思い出したのが静岡大学で教鞭をとっていた松田純氏である。若いころはヘーゲル哲学を研究していたが、ある時から生命科学とか医療の倫理とかに方向転換した。学問を世の中に役立てたかったのだろう。氏は私の旧友とでもいうべき人で、その見事な転向?を私は心から賞賛している。

 その彼が最近送ってくれた本に『薬学と倫理』というのがある。彼が監修・執筆したもので、薬剤師はどうあるべきかが説かれてある。その最後に、ガイドラインや規則にただ従うのは「マニュアル的」であって、「倫理的」ではないとある。私が考えていたことをぴたりと言い当てていると言葉であり、これは薬剤師だけでなく、誰にでも当てはまることだと思った。現代人に必要な哲学とはこれだ、と思ったのである。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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