2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識―日常篇(9)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

自分は働いてつくるもの

自分探し(幻覚) イメージ    一昔前、よく耳にした言葉に「自分探し」というのがあった。探すというのだから、見失っているという実感があるのにちがいない。現代のようにメディアが発達し、それが個々人の精神に多大な影響をおよぼすとき、人は自分がほんとうに自分の願望や必要に応じて行動しているのかわからなくなる。それで、「自分を見失った」と感じるのだ。

 このような現象は前近代の社会にはなかったにちがいない。前近代は身分社会であり、個々人は自分の所属する身分が決まっており、職業までも決まっていたからだ。そのような社会にあっては、思考様式も行動様式もある程度決まっており、したがって確固とした「自分」が与えられていた。「自分探し」など、あるはずがなかった。

 では、現代における「自分探し」は深刻な自己喪失感から来る必死の模索なのかというと、実はそうでもない。というのも、「自分探し」という言葉自体、流行語と見ることができるからである。つまり、これはメディアの操作によって生まれた空虚な言葉だ。となると、「自分探しをしている」と人前で言うこと自体が、カッコいいことになるのだ。

 とはいえ、国民の多くがこの言葉を好んで用いているわけではない。特定の年齢の特定の人しか、これを用いていない。となると、この言葉を用いる人の奥底には、ある種の居心地の悪さ、不安といったものがあることも間違いのないところだ。

 この言葉は「自分」の欠如を表現しつつ、その暗い部分を隠すはたらきをしているのではないだろうか。これを用いることでトレンドに乗ることもでき、それによって社会の一員になれるという錯覚も生み出せる。

 話は逸れるが、中身のない言葉でもそれを使うとトレンドに乗れるという例が、最近は多いように思われる。都心の路上で見つけた「グルテン・フリー」という言葉もそのひとつで、欧米ではグルテン・フリー食品なるものが出回っており、これは端的にいって小麦アレルギーの人向けの食品ということであるのだが、日本ではその種のアレルギーの人が少ないので、この言葉が意味不明ながら用いられるのである。そうしていくうちに、これもトレンドになっていくのだろう。

 私が都心の路上で見た「グルテン・フリー」は、あるお好み焼き店の立看板にあった。「当店のお好み焼きはグルテン・フリー」と書き込んであったのだ。店員にその意味を聞いてみると、「よくわかりません。店長がそういう言葉がお好きなんで」という。そこで店長に聞いてみると、「いや、実際はグルテンありなんです、うちのお好み焼きも。ただ、いい材質を使っているよという意味でグルテン・フリーと言ってるんです。なんとなく、響きがいいじゃないですか。」

 これを聞いたとき、「看板に偽りあり」と一瞬思ったが、店長のナイーブというか、無責任というか、憎めないところが可笑しかった。それにしても、ここまで気楽に言葉を使っていいものか。

 「自分探し」に話を戻すと、この言葉は、普段の自分は本当の自分ではなくて、本当の自分がどこかにいるという錯覚のうえに成り立っているように思われる。カナダの哲学者テイラーが「自己探求」は近代人の特徴だなどと言っているが、事故を探究するよりは、他者といかに結びつくかを探求すべきだろう。

 前にも言ったように、身分制度のなかでは「自分」というもの明確だっただろう。しかし、近代においてはそれが不明であり、むしろどこにもないと言った方がよいのだ。そういう現状において、いくら「自分」を探しても闇に包まれ続けるばかり。不安は解消されない。「自分探し」はカッコいい響きをもつかもしれないが、虚しい作業とならざるを得ない。

 私見では、「自分」というものは自分でつくっていかねばならないものである。ただし、そこで忘れてはならないのは、自分をつくるには社会と労働が必要だということだ。自分ひとりで自分をつくるなど誰にもできないし、自分をつくるとは人と一緒に働くことなのである。

 日本では前々から「一人前になる」「社会人になる」という言い方がなされてきたが、これは正解であろう。社会に出て、他の人たちと一緒になにかをつくることで、ようやく「自分」が見えてくるし、自分の生き方というものもできてくるのである。個人主義という言葉があるが、個人をつくるのは社会であり、協働である。このことを忘れてはならない。

 現代社会の問題点のひとつは労働が機械的になってしまい、働くことが協働ではなく、機械あるいは既存システムの一部となることに収斂してしまっていることだ。そうなると、人は成長できないどころか萎縮していく。自分をつくるどころか、自分をなくす。

 企業家はこの点に留意して働く人々の環境づくりに精を出すべきだ。働く人はシステムが自分を圧迫していると感じたら、声を出して、すなわちノイズを発して、フィードバック機能を発揮すべきなのである。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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