2024年12月28日( 土 )

孫正義氏の大恩人・元シャープ副社長佐々木正氏102歳で死去(後)

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 日本の液晶開発の草分け的存在で、元シャープ副社長の佐々木正氏が1月31日、肺炎のため死去した。102歳だった。氏は人の才能を見抜くことにたけていた。無名の若き開発者だった孫正義氏を見出し、他社に断られた製品を買い付けるなど、手厚く支援したことは今も語り草だ。

シャープに特許権を売却して軍資金にする

 孫正義氏は1957年8月11日、在日韓国人三世として佐賀県鳥栖市に生まれた。パチンコ店で財を成した父親・安本三憲氏は、正義氏に「お前は天才だ」と繰り返し吹き込んだ。正義氏は福岡県屈指の進学校の久留米大学附設高校に進学したが、才能をもてあまし、学業で満たされない熱情を海外に求めた。
 高校1年の2学期で中退し米国に渡った。シニアハイスクールを卒業、カリフォルニア大学バークレー校の経済学部に入学した。このバークレー校での生活が、その後の人生を決めた。19歳のとき、自らのライフプラン「人生50年計画」を立てた。

 20代で名乗りを上げる。30代で軍資金を最低1,000億円貯める。40代でひと勝負する。50代で事業を完成させる。60代で事業を後継者に引き継ぐ。

 高い目標を大々的にぶち上げて、自己暗示にかける。彼の人生を貫いてきたやり方だ。20代で名乗りを上げるためには、開業資金が必要だ。孫氏がとった方法は、開業資金を発明で稼ぎ出すことだった。頭に閃いた発明を片っ端から特許出願し、最初の1年で実に250件もの発明をやってのけた。こうした発明の1つが「音声機能付電子翻訳機」である。シャープがこの特許を買って、1億円余りを支払った。
この1億円でバークレーにあったゲームセンターをビルごと買収して、会社(ユニゾン・ワールド)を設立した。学生起業家の誕生である。在学中に当時のカネで3億円以上も稼いだ。もっとでかいことをやりたいと考えて、この会社を共同経営者に譲り渡した。

 大学を卒業した孫氏は1980年に帰国。福岡市雑餉隈に、米国と同じ社名のユニゾン・ワールドを設立。創業初日に、孫氏はミカン箱に立ち、アルバイト2人を前に「我が社は5年以内に100億円、10年で500億円、いずれ1兆円企業になる」とぶち上げた。アルバイトの2人は呆れ返って、2週間もしないうちに辞めてしまった。

 やるからには、東京で起業すべきだ。1981年6月、東京・千代田区に日本ソフトバンク(現・ソフトバンクグループ)を設立。机2つだけで、パソコンソフトの卸を始めた。

銀行に孫正義の保証人になると伝える

 若き起業家である孫正義氏の後ろ盾となったのが佐々木正氏である。孫氏の大恩人としての立場を決定的にしたのが、銀行融資の保証人になろうとしたことだ。前出のPRESIDENT誌を引用する。

〈82年、日本ソフトバンク(当時)を起業してまだ間もない頃、ソフトの卸を業務にしていた孫は、運転資金に行き詰まり、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)麹町支店に1億円を無担保で貸してくれるように頼んだ。
 「そこの支店長は、孫さんに惚れ込んだようだが、1億円という巨額な融資を一支店長の裁量では決められません。何か担保はないかと聞く支店長に、孫さんは苦しまぎれに僕の名前を出したらしい。銀行側は驚いて本部の役員を介して照会を求めてきたのですが、僕は『孫を頼みます』と答えたのです」
 そのとき佐々木は、万一の場合に備えて自宅と退職金を差し出すつもりだったと語る〉

 佐々木氏の後押しがなかったら、孫氏の野望はこの時点で潰えていた。佐々木氏を「大恩人」と呼ぶ所以だ。それにしても、なぜ、そこまでしたのか。「それはねえ、かわいいからだよ」と答えている(日本経済新聞電子版2月3日付)。孫正義氏と佐々木正氏の宿命的な邂逅であった。

(了)

 
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