松竹と市川猿之助の騒動 歌舞伎と映画の赤字を不動産で支える同族経営(前)
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6月は株主総会の季節である。注目された株主総会の1つに、歌舞伎・映画の名門、松竹(株)(東証プライム、東京都中央区)がある。総会は経済記者の出番だが、松竹は違った。芸能記者が多数つめかけた。歌舞伎界の人気者、市川猿之助騒動に、勧進元である松竹がいかに言及するかを取材するためだ。
松竹の株主総会で、市川猿之助騒動の言及は期待外れ
スポーツ・芸能紙『スポーツ報知』(5月23日配信)は「松竹、株主総会で市川猿之助の騒動に言及も混乱もなく終了」と報じた。
〈歌舞伎の興行を取り仕切る松竹の株主総会が23日、東京・築地の東劇ビルで行われた。
総会に出席した株主によると、18日に救急搬送された市川猿之助について冒頭のあいさつで会社側から言及があったという。情報把握に努めているという趣旨の説明で、新事実が明かされることはなかった〉歌舞伎界の人気者、市川猿之助が起こした前代未聞の心中事件。父・市川段四郎と母・延子が亡くなり、猿之助は意識不明というなかで救助された。(以下・敬称略)
連日、テレビ、新聞、週刊誌が大々的に取り上げたが、両親が亡くなった出来事への謎は残っていて、正確な原因はわからない。警察の事情聴取を受けた猿之助は「家族で死んで生まれ変わろうと話し合った。両親が薬を飲んだ」と告白しているそうだが、動機などの真実は明かにされていない。
〈「松竹という会社は、何があっても猿之助さんを守る姿勢は変わりありません。たとえ有罪となったとしても、歌舞伎の舞台復帰に何年でも猿之助さんを待つことになるでしょう」(松竹関係者)〉
(FRIDAY digital 6月5日配信)松竹の創業者は白井松次郎と大谷竹次郎の双子の兄弟
松竹とは、どんな会社か。歴史をひもといてみよう。有森隆著『創業家物語』(講談社+α文庫)に収められている「松竹、大谷家」の一部を引用する。
松竹は白井松次郎、大谷竹次郎の双子の兄弟が創業者。兄弟は1877(明治10)年12月13日、京都の芝居小屋で売店を経営する大谷栄吉の息子として生れた。歳末の13日、京都の慣習で縁起の良い日だった。この日から正月の松飾りの準備をする。それて、兄を松次郎、弟は竹次郎と名づけられた。
兄の松次郎は、京都・新京極の劇場で売店を経営する白井家の婿養子に入り、白井松次郎を名乗る。父の代理人となった弟の竹次郎は1895(明治28)年、18歳で芝居小屋を買収して興業主となる。松竹の歴史はこのときに始まる。
1902(明治35)年、兄弟は松竹合名会社を設立。社名は2人の名前の頭文字、松と竹から取って、松竹とした。やがて松次郎は大阪、竹次郎は東京に進出。竹次郎は東京の興行界を制覇し、活動写真(映画)に手を染め、松竹王国を築いた。
竹次郎はピストルをフトコロに入れてヤクザと対峙する武勇伝の持ち主
竹次郎は武勇伝の持ち主だ。若いころはピストルをフトコロに入れてヤクザと対峙するという、ドラマチックな体験をしている。どうしてこうなったかというと、日本の芝居小屋には悪い習慣があった。木戸(小屋の入り口)には、大木戸と称して、その筋の親分が頑張っていて、木戸銭をかすめ取っていた。
竹次郎は「このけしからん風習を一掃しない限り、劇場経営は成功しない」と考えた。「劇場の寄生虫」と竹次郎は言っているが、長年はびこっているボスたちを一掃する過程で、日本刀を抜き身にした男が劇場に躍り込んできた。巡査に護衛してもらったり、護身用のピストルをもって、ヤクザと対決したそうだ。
松竹映画の黄金時代を築いたのは城戸四郎。東京帝国大学法学部を卒業後、松竹社長・竹次郎の養子となる。1924(大正13)年、松竹キネマ蒲田撮影所長に就任。新進の監督を登用し、フレッシュな映画をつくった。『君の名は』や小津安二郎監督に代表される市井の庶民を描いた「大船調」と呼ばれる作品で、松竹映画の全盛期を演出した。松と竹は「映画は城戸に任せておけばいい」と言った。演劇と映画が松竹の両輪になった。
(つづく)
【森村 和男】
法人名
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