55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(1)ALS(筋萎縮性側索硬化症)宣告
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2023年6月23日午後10時19分、付合いから55年、結婚52年のわが伴侶、児玉悦子が永眠した。「もう別れが近いかもしれない」と悟り、6月19日から病院泊まりを始めた。同様の経験をお持ちの方々から「1週間が峠である」と聞かされていたから、週末の別れを覚悟していた。体験者の指摘は的を射ている。
週末だったため、訃報の広がりを懸念していた。にもかかわらず、25日の通夜と26日の葬儀には延べ550人の方々が駆けつけてくれた。この場を借りて深く感謝します。悦子はすばらしい妻であり経営の同志でありました。ここで単なる妻への追悼思い出話をつづるのではありません。中小企業経営者の皆様方に、私が得た教訓をお伝えしたく、このシリーズをまとめてみました。参考になれば嬉しいです。
正月、最悪なり
わが妻・悦子が主治医からALS(筋萎縮性側索硬化症)の宣告を受けたのは、昨年10月のことである。10日間にわたる検査の結果であった。「難儀な病気です。体が動かなくなってしまいます。現在の医療水準では完治のすべはありません。一番辛いことは、死ぬまで意識が明晰なままであることです」との、残酷な通告であった。予想はしていたが、これを耳にして全身の震えがしばらく止まらなかった(この主治医のいう通り、悦子は最後の2分間、必死に何かを伝えていた。残念ながら、もう2週間も前から声を出すことができなくなっていたのである)。
それからみるみるうちに体力の衰えが進行した。正月2日に神社三社参りをしたのだが、転倒を懸念して腕を組んで歩いた。3回ほど転びそうになったが、しっかり腕を組んでいたので倒れることはなかった。足元を見たが、そこに段差はまったくない。平面である。「足を上げることができないからつまずくのだ」と納得した。
今年は悪い年になるかもしれない――そんな不吉な予感に襲われた翌3日、最悪の事態が起きた。自宅リビングで、筆者の目の前で頭から卒倒したのである。私には受け止める余裕すらなかった。「段差に頭を打っていたら大変だ」と狼狽し、救急車を呼んだ。このときは幸いにも打撃を受けずに済んだ。その日は帰宅が許された。
2カ月治療のことを検討する
以来、妻の通院が始まった。こちらとしては「死を意識して」、親しい人たちとの対面の場をたくさん設けるようにしてきた。昨年11月には筆者の故郷へ連れて行き、幼馴染みたちと会食させた(妻は筆者の友人たちと親しく付き合ってきた)。2月には神戸にいる彼女の一番の友人を訪問。とても喜んでくれた。昨年夏から毎回「最後の晩餐」のつもりで会食を重ねたが、友人はそれに気づかなかったのだろう、葬儀場で「あんなに元気だったのに」と泣き崩れた。みなさんも余裕があるなら、親しい方々を呼んで、密やかな別れの会を設けることをお勧めしたい。後から悔やむことは多々あるもの。妻の生前、スケジュールが合わずに2回も対面できなかったある友人は、後で事情を知って残念がっていた。
やはり病院しか対応できず
2カ月間の検討の結果、救急車で担ぎ込まれた病院にお世話になることにした。自宅から近いことも決め手のひとつとなった。担当医からは初っ端から残酷な現実を告げられた。「よくなることはありえません。病状が悪化したら、酸素補給器を口に取りつけることになります。栄養も胃ろうで摂るしかありません。補給器を取り外したら、すぐに死んでしまうでしょう」と。
悦子はその治療方法を拒絶した。彼女にとって最も辛かったのは、痰きりの時である。これに全エネルギーを消耗してしまう。固体物を口から食べられなくなった。こうして、亡くなるまでの110日間、点滴で生かされていた(平均700キロカロリー)。それでも治療は病院でしかできない。24時間、看護士さんたちが見守ってくれるのだから。
(つづく)
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