新しいお墓の形~家族、生き方、お墓が変わる(1)家墓の歴史
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働き方や生き方、家族まで、あらゆるものが変わりつつある現在。この変化は浮世の生にとどまらず、死後の世界にも押し寄せている。すなわち、お墓である。本記事では、現代の標準的な家墓のルーツも確認しながら、お墓の新しい在り方を紹介する。
家族が変わる、お墓が変わる
9月に入ってもまだ暑い日々が続いている。皆さんは今年はどのような夏を過ごされただろうか。新型コロナの影響がほぼ収まり、行動制限も解除され、4年ぶりの「いつもの夏」となった。コロナの期間、人の移動をともなう活動がリモートに置き換わるなど、多くの旧習が見直されたが、今年の夏は、コロナ前に戻りつつある活動と、もはや戻らないものとが、明らかになった夏ではなかったろうか。
かつては「田舎の夏」がどこにでもあった。あるいは、日本人に共通のイメージとして思い描かれてきた。夏はお盆の季節であり、お盆には田舎に帰る。そこにはおじいちゃんやおばあちゃんがいて、お墓があり、ご先祖さんの魂がいる。「田舎がある」とはそういう場所があるという意味であり、「田舎に帰る」とはそうした「帰る場所がある」という意味であった。
しかし、少子化や非婚の増加、グローバリズムの進展など、家族や暮らし、住む場所の多様化・流動化によって、家族のかたちが大きく揺らいでいる。そこへ突然襲いかかったコロナ禍を契機に、これまでかろうじてつなぎ止められていた田舎のお墓との接点が、ついに失われてしまったという人も少なくないだろう。そのあとに訪れるのは、墓守の負担から解き放たれた安堵であるか、あるいは「先祖代々の墓」を守ることができない申し訳なさか。同時に、自分たちの墓を自ら探さねばならないという、現実的な課題も待ち受けているだろう。
現代の家墓の成立
失われゆく「〇〇家之墓」や「〇〇家先祖代々之墓」といった家墓は、実はそこに祀られているはずのご先祖様ほどに、歴史は古くない。
江戸時代、墓が出現するのはおよそ元禄年間(1688~1704年)からである。ただし、墓をもつのは武家や豪商や庄屋などに限られており、庶民はお墓などというものはもたなかった。死んだらせいぜい埋葬された場所に土饅頭がつくられる程度で、墓標らしきものもほとんどなかったと見られる。地域によっても違いがあるだろうが、庶民の墓が見られるようになるのは江戸後期の文化年間1804年頃からだ。
当時は基本的に土葬であり、墓の形式としては、1人が祀られる個人墓か夫婦墓が多い。前者には、1体を土葬したその上に、その人物を祀る墓を築くタイプと、埋葬した所ではない別の場所にその人物を供養するための墓標(詣り墓)を立てるタイプがある。夫婦墓は、1体を埋葬したその上に墓を築き、そこに別の場所に埋葬された配偶者を合祀したものだ。夫婦墓にその子らや孫など親密な人の名を背面に刻んで合祀した墓なども見られる。
現代の標準である「〇〇家之墓」といった家墓が確立したのは近代以降である。背景には、明治政府が旧民法で規定した家父長制と家督制度がある。家を単位として、家長である長男の絶対的な権限と相続権を認めるものだ。明治憲法において皇統という観念が天皇家の正当性の根拠として持ち出されたように、ご先祖様も家父長制の観念的な根拠となり、近代の権威主義的な中央集権構造を国民の末端まで浸透させる機能をはたした。
そのほかにも家墓の成立を後押しした現実的な事情として、江戸時代まで一般的ではなかった火葬を政府が推奨したことや、都市化による人口増加と墓所用地不足なども挙げられる。とくに東京では、関東大震災による寺院内墓所の整理が、火葬して一家で1つのお墓に入るという形式を急速に普及させた。そして、戦後高度経済成長期の人口移動と新しいお墓の需要増加によって、画一的な家墓が全国的に広まったと考えられる。つまり、庶民が家墓をもち始めたのは、せいぜいここ100年程度のことなのである。
(つづく)
【寺村朋輝】
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