【巨大地震に備える(5)】数々の文化遺産が煌(きら)めく
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南海トラフ地震の被害想定のための現地取材だけでは息が詰まってしまう。浜松市から北に車で1時間ほどの場所にたくさんの文化遺産があると聞いた私は、気分転換のため、この文化遺産巡りをすることにした。
徳川家康は織田信長の命を受け、三河から浜松へ移り、領土経営を本格的に開始した。ここでの統治経験の蓄積が天下獲りの力になったと言われている。
家康の浜松統治時代の最大の恥辱は、武田信玄に大敗北を喫した三方ヶ原の合戦だろう。家康の戦人生において最も軽率・妄動な戦だった。敗走した家康、普通ならば信玄の怒涛の追撃があっても良かったはずだが、攻撃はストップした。この事実からさまざまな憶測が流れ、小説もつくられている。
家康はついていた。信玄の病気が悪化の一方を辿り、武田軍は撤退するしかなかったのだ。家康の居城だった浜松城は現在、浜松市役所の敷地として活用されており、一部しか残っていない。
周囲を車で走ってみて地形がよくわかった。三方ヶ原の戦場は高台にある。そこから当時の浜松城まで15kmほど下り坂が続く。その最終地点が浜松城だ。信玄が体調万全、闘志充満ならば一挙に攻めてきただろう。そうなると防御不可能だったと思われる。
直虎ゆかりの地をめぐる
大河ドラマで有名になった井伊直虎の故郷を訪ねた。もともと、井伊谷地区を治めていたのが井伊家だ。井伊家は家康のルーツである松平家と比較して、はるかに格式が高い。平安時代後期から地頭として当地を治めてきた井伊家は領民たちに尊敬されていたという。
現在も『俺たちの井伊家さま』と地元の人々は口にする。戦国時代、今川・織田・松平の三すくみの陣取り合戦で井伊家は存続のための選択に苦悩した。直虎の明断・行動で徳川の側近として井伊家を発展させたのは大河ドラマの通りである。
井伊谷城は標高115mの小山に築かれた山城で現在は城山公園として整備されている。今回の趣旨とは外れるので詳細は省略するので添付写真を見ていただければと思う。
井伊家の菩提寺は龍潭寺。創建1300年弱で40代の祖霊を祀っている。この龍潭寺を含めた5つの寺は『湖北五山』と呼ばれている。平安時代から、この井伊谷地区は宗教・文化・経済の中心地区だったといえよう。この地域を統治していた井伊家はたかが地頭と蔑ろにできない。都=京都との縁があったともいわれている。
龍潭寺をめぐると井伊家の格式の高さがわかる。この寺のおかげで井伊家の歴史が詳細に伝えられている。
『湖北五山』のなかで龍潭寺と双璧の方広寺は臨済宗方広寺派の本山だ。この寺は山奥にある。車で駐車場まで行き、そこから徒歩10分で展望台に着く。そこから下を眺めてみた。すると東海屈指の規模を誇る本堂が目に飛び込んできた。「おー、この光景はすばらしい!!圧倒させられる」と思わず叫んでいた。方広寺は「奥山半僧坊」として親しまれている名寺。60haという広大な境内には国指定重要文化財の釈迦尊像・七尊菩薩堂、三重の塔、自然のなかに佇む五百羅漢像がある。
これだけの国指定の文化財が集積されているという事実に圧倒された。方広寺は京都の名寺とまったく遜色がない。
ふと秋の紅葉の様子を想像してみた。まさしく浮世から隔離されたような荘厳で艶やかな色彩が目に飛び込んでくるだろう。『湖北五山』を一度、探索されることをおすすめしたい。
浜名湖幹線全滅
「方広寺にもっと居たい」という誘惑にかられた。しかし本来の目的を達しなければならない。気持ちを引き締め、車で浜名湖周囲をめぐることにした。
南海トラフ地震が発生すると、浜名湖河口から津波に襲われる。河口には東名高速道路、国道1号線、東海道新幹線、東海道在来線がひしめいている。津波が来ると、これら交通の要所は一瞬にして寸断・壊滅してしまい、交通の往来・物流すべてがストップしてしまう。湖畔北部を横断する新東名高速道路だけは非常時、役に立つだろうが…。
(つづく)
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