2024年07月28日( 日 )

アメリカはどうしてイスラエルを支援し続けるのか?(後)

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広嗣まさし(作家)

 ユダヤ国家と称するイスラエルが、アメリカのユダヤ富豪を介してアメリカ政府に圧力をかける。それゆえ、アメリカ政府はイスラエルを支援し続ける。だが、たとえそうでも、それだけですべてが説明できるか? アメリカ政府はそこまでユダヤ富豪の言いなりになっているのか?

 アメリカがユダヤ富豪に弱いのは、その財力に依存しているからであるという。しかし、政府の依存対象は必ずしもユダヤ富豪とは限らない。アメリカにはホロコーストにまつわる一種の罪障感がある、という説もある。本当にそうか?

 ナチスのユダヤ大量虐殺はヨーロッパで起こったことで、ドイツに限らずヨーロッパ諸国ならある種の罪障感を持っているとして理解できないわけではない。しかし、アメリカでのユダヤ人はそれほど差別されていないどころか、むしろ国家発展に多大な貢献をしている民族と位置づけられている。また、ユダヤ人を仲介にして多民族国家をまとめ上げているという面もあるのだ。

 アメリカではユダヤ人が「白人」として扱われているというのも事実である。アラブ人としか見えないようなユダヤ人でも、アラブ人としては見られず、「白人」なのである。だから、アメリカ人がホロコーストの話を聞いてユダヤ人に罪障感を感じるといった話は、信じるに値しない。反ユダヤ主義は、アメリカではほぼタブーなのである。

 アメリカ人がホロコーストという言葉に翻弄されてきた、ということはあり得る。両親ともホロコーストをかろうじて生き残ったという政治学者フィンケルシュタインは、ホロコーストを利用してユダヤ人への同情をかき集める動きが西欧世界にはあり、それがホロコーストの犠牲者を汚すことになっていると激しく訴えている。ホロコーストを商売道具にしているイスラエルはさらに許し難い、と彼は怒っている。

 彼の主張は、イスラエルを熱烈に支持するユダヤ資本家たちと真っ向から対立する。その結果、その学問業績は十分に評価されず、ユダヤ富豪の息がかかっている有名大学には就職できずに今日に至った。

 アメリカが「ホロコースト」に弱いのは、自らの拠って立つ基盤が脆弱になったことにも因ると私は思っている。アメリカ人を支えてきた開拓精神がいつか挫折してしまったのだ。今でもさまざまな分野で新しいアイデアを実現する力を持ち続けてはいるが、もはやそこにはなんら哲学はない。アメリカ精神は死んだのである。

 たとえば戦後日本を構築したマッカーサーのような人物は、もはやどこにもいない。マッカーサーの回想録を読むとわかるのは、彼が根っからの開拓精神の持ち主だったことだ。

 未知の地に足を踏み込んで少しもひるまず、そこで出会った敵を何のためらいもなく倒し、倒したらその後始末をきちんとしてさらに前進する。しかも、軍隊という組織の人間であるよりは、進取の気性に富んだ武人として自由に振る舞うのである。そうであればこそ、国の存続のために無私な態度を貫いた(と彼には見えた)昭和天皇に感銘を受け、倒した敵であった日本人が立ち直れるよう(彼自身はそう思っていた)、新たな国づくりのプランを立てたのである。

 マッカーサーはよい時と悪い時の差がはっきりした人間で、アメリカ政府の言うことも聞かない勝手きわまる人間だった。そういう彼を賛美することは到底できないのだが、平和憲法を日本に押しつけ、不当な戦争裁判を遂行した者として断罪するだけでは重要なものを見落とす。当時の日本人が自力で新基軸を打ち出すことができなかったことを考慮するならば、彼のやったことのすべてが正しかったとは言えなくとも、そのかなりの部分は日本のためになっているのである。

 さて、私がここで言いたいのは、マッカーサーのような開拓魂はもはやアメリカにはない、ということである。その魂は、かつてはマッカーサーの側近で、ナチス打倒の立役者となって大統領にも選ばれたアイゼンハワーにもみられた。ところが、どうだ。アフガニスタンにせよ、イラクにせよ、軍隊を送り込みはしても、そのあとなんの保障も、なんの建設もしない国になってしまった。イスラエルに軍事支援をつづけても、そこに理念があるわけではなく、あるのは「戦争で経済を立て直す」という安直な経済論理だけなのだ。

 もちろん、そういうアメリカでも、いまだに「自由」と「民主化」のためにという言説は保持している。しかし、それが空念仏となっていることは、ほかならぬ本人たちも気づいているはずだ。アメリカは堕落した。そう言って、間違いないと思う。

 アメリカでは20世紀前半の大恐慌のころから「戦争は儲かる」と言われてきた。戦争をすれば、軍需産業が活発になり、失業率も減って経済がよくなるというのである。しかし、それでも戦争に踏み切るには、それだけの大義名分がなくてはならない。その大義名分がかつてはあったのに、今はないということだ。

(了)

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