【特別寄稿】日本の中小企業とジョブ型雇用~ジョブ型に惑わず、メンバーシップ型を脱ぎ捨てられるか~(後)

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労働政策研究・研修機構労働政策研究所長
濱口桂一郎 氏

 近年「ジョブ型」が流行しているが、かつて高度成長期にも職務給が流行していた。日本ではジョブ型は目新しいものとして売り込まれるが、実は世界的に見れば産業革命期以来の古くさい仕組みである。また世界的にはジョブ型からの脱却を唱道する声もある。むしろ日本的なメンバーシップ型は、非正規労働や女性、高齢者の働き方との矛盾ゆえに見直しが迫られている。一方、中小企業はジョブ型ではないが、大企業的なメンバーシップ型とも異なる面がある。伝道師の売り歩く「ジョブ型」に惑うことなく、自社の寸法に合わない過度なメンバーシップ型を脱ぎ捨てたほうが良い。

メンバーシップ型の毀誉褒貶

 1970年代半ばから90年代半ばまでの20年間は、硬直的な欧米のジョブ型に対して日本型雇用システムの柔軟性が注目され、競争力の根源として礼賛された時代であった。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がその代表だ。

 そのころの典型的な言説が、1985年に開催されたME(マイクロエレクトロニクス)と労働に関する国際シンポジウムで、当時の氏原正治郎職研所長が行った基調講演に見られる。

 曰く:「一般に技術と人間労働の組み合わせについては大別して2つの考え方があり、1つは職務をリジッド(厳格)に細分化し、それぞれの専門の労働者を割り当てる考え方であり、今1つは幅広い教育訓練、配置転換、応援などのOJTによって、できる限り多くの職務を遂行しうる労働者を養成し、実際の職務範囲を拡大していく考え方である。ME化の下では、後者の選択のほうが必要であると同時に望ましい」

 当時は、欧米に対しジョブにこだわるから生産性が低いとか、日本型にすればすべてうまくいくといわんばかりの論調すらあった。近年は、日本はメンバーシップ型ゆえに生産性が低いとか、ジョブ型にすればすべてうまくいくといわんばかりの議論が流行している。ジョブ型/メンバーシップ型が本質的に優れている/劣っているというたぐいの議論はすべて時代の空気に乗っているだけの空疎な議論にすぎない。

 むしろ、メンバーシップ型の真の問題点は、陰画としての非正規労働や女性や高齢者の働き方との矛盾にある。いつでもどこでも何でも命じられたまま働ける若い男性正社員を大前提にしたシステムが、これら多様な働き手におよぼす悪影響については『若者と労働』『日本の雇用と中高年』『働く女子の運命』といった諸著作で詳述している。

 一言でいえば、メンバーシップ型雇用は(局所的には生産性が高いかもしれないが)社会学的に持続可能性が乏しいのだ。だからこそ、安倍政権下で働き方改革が行われたのである。正規と非正規の間の同一労働同一賃金にしろ、時間外労働の絶対的上限規制の導入にしろ、かつて持て囃された日本的柔軟性を否定して欧米型硬直性を求める復古的改革である。この点を的確に理解している人は数少ないように見える。決してジョブ型が前途洋々というわけではないのだ。

中小企業はジョブ型か?

労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎 氏
労働政策研究・研修機構労働政策研究所長
濱口桂一郎 氏

    日本の労働社会の大部分は中小零細企業であり、従業員規模によって程度の差はあれ大企業に典型的なメンバーシップ型の特徴はそれほど濃厚ではない。拙著で述べたように、企業規模が小さくなればなるほど、勤続年数は短くなり、賃金カーブは平べったくなり、労働組合は存在しなくなる。実際、企業規模が小さいほど異動できる職務は限られるので、無限定正社員といったところで、事実上かなり限定されているのと変わらない。企業体力が弱い分、整理解雇で失業することもそれほど珍しくない。

 とはいえ、だから日本の中小企業はジョブ型に近い、と言ってしまうと完全な間違いになる。むしろ大企業型とはひと味違うある種のメンバーシップ性が濃厚にあるというべきだろう。1つには、戦後高度成長期に上から構築されたモダンなメンバーシップ型とは対照的な、伝統的人間関係そのものの延長線上に存在するある種の家族主義の感覚が残っている。

 「ジョブ型以前」的な原初的メンバーシップ感覚だ。他方では、大企業で確立したメンバーシップ型のさまざまな規範が、その現実的基盤の希薄な中小零細企業にも「あるべき姿」として染み込んできている。こちらはいわば「ジョブ型以後」的なメンバーシップ思想である。この両者は厳密には齟齬があるはずだが、両者入り交じって「明日は大企業みたいな雇用システムになろう」という「あすなろ」中小企業が大部分になっているように思われる。

 たとえば、新卒採用が困難なので中途採用で人手を確保せざるを得ず、さまざまな年齢層の社員が社内のごく限られた職務に就いているような中小企業では、ジョブローテーションによる仕事の幅の拡大を根拠とする年功制の合理性は薄いはずだが、もっともらしく大企業モデルの職能資格制度を導入して、かえって中高年の過度な高賃金という不要な自縄自縛をもたらしているのではないか。とはいえ、「あるべき姿」をひっくり返すのは難しい。

 「うちの社員は皆家族みたいなものだ」という原初的メンバーシップ感覚がそれを支えてもいるからだ、しかも、世にはびこる「ジョブ型」論が描き出す描像は、いまの大企業よりも中小企業の実像に近いものとしてではなく、(いまの大企業にもっともっと柔軟化せよといわんばかりの)この世のどこにも存在しないくらい異常に高度な代物として描こうとするものだから、ますます頭が混乱するのだろう。

ジョブ型に惑わずメンバーシップ型を脱ぎ捨てる

 大企業分野に焦点を当てた(まっとうな)ジョブ型論が足をくじくのは入口のところである。いかに「初めにジョブありき、そこにそのジョブを遂行しうるスキルをもった人をはめ込むのだ」と言ったところで、大企業に就職しようと思うような人材のほとんどが、特定のジョブのスキルを身につけるのではなく、何でもできる可能性のあるiPS細胞の養成所とでもいうべきところへ集中している以上、人と違う行動をとればペナルティを科せられる。異なる仕組みが成立するとすれば、入口からなかの仕組みまで全部別扱いする一国二制式しかないであろう。いま大企業がそういう方式を現実に検討しているのは、世界的に争奪戦になっているIT技術者などくらいであろう。

 ところが中小零細企業は、ただでさえ新卒採用が難しいがゆえにこの難題からも相対的に解放されている。かつて就職氷河期に就職できないままフリーターとならざるを得なかった氷河期世代の元若者たちを、この20年あまりの間にじわじわと少しずつ採用して、労働社会のそれなりの主流にはめ込んできたのは、ぴちぴちのiPS細胞ばかりにこだわる大企業ではなく、それができないことに劣等感を持つ中小企業であったことに、逆説的だが誇りをもってもいいのではなかろうか。

 話を一段マクロなレベルにもっていくと、典型的なメンバーシップ型の日本型雇用システムが戦後高度成長期に主として大企業で形成されたのと同様に、典型的なジョブ型の欧米型雇用システムは20世紀中葉にやはりアメリカの大企業で形成されたものだ。やたらに細かいジョブ・ディスクリプションなども、大企業に多種多様な職務がひしめき合い、その間の区分(デマーケーション)を明確にすることが求められたからやむを得ずつくらざるを得なかったのだ。ジョブ型社会といえども、中小零細企業になればそんな硬直的な仕組みをわざわざつくる必要はない。そういう意味では、洋の東西を問わず、中小零細企業は雇用システムなどにあまりこだわる必要はないのかもしれない。

 いま中小企業が考える必要があるとすれば、それはジョブ型伝道師が売り歩くこの世ならぬ「ジョブ型」を導入しようかと思い惑うことなどではなく、自社の寸法に合わない過度なメンバーシップ型の「あるべき姿」を、ちょうどいい具合になるまで脱ぎ捨てることではないかと思われる。それを何と呼ぶかは自由である。

(了)


<プロフィール>
濱口桂一郎
(はまぐち・けいいちろう)
1958年生まれ。83年労働省入省、2003年東京大学大学院客員教授、05年政策研究大学院大学教授、08年労働政策研究・研修機構統括研究員、17年労働政策研究・研修機構研究所長。主著:『新しい労働社会』岩波新書(2009年)、『若者と労働』中公新書ラクレ(2013年)、『日本の雇用と中高年』ちくま新書(2014年)、『働く女子の運命』文春新書(2015年)、『働き方改革の世界史』ちくま新書(2020年)、『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書(2021年)。

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