ここで強調したい「生と死の分岐点」というのは社会復帰、接点がゼロの状態を指す。「死ねば終わり」であることは誰でも認識できる。ここでの内容はたとえば「老人ホームに24時間閉じ込められてしまう状態」を指す。誰でも必ず老化はやってくる。しかし、目的をもって節制すれば10年、20年いや30年健康な状態を保つことができる。友人の老人ホームを見舞った際に得た教訓をつづろう。
糖尿病が命取り
筆者の友人・八代(仮名)からの連絡が途絶えて3カ月になるだろうか。彼とは35年来の付き合いである。ところが先日、八代から突然の電話があり「老人ホームに入院した」と告げられた。筆者と同い年の八代は、経営者として辣腕(らつわん)を振るってきた。だが、わがままな性格が目立ち、幹部たちの裏切り、離散を繰り返してきた。その都度、忠告をしたのだが、性格が変わることはなかった。一方で義理人情に厚く、特定の親密な友人たちがいた。その1人が筆者であろう。
かなり前から八代に「酒の量を減らせ」と忠告してきた。「毎日アルコールを嗜むのをやめろ」とまで野暮なことは言わなかったが、とにかく飲む量が半端ではなかった。医者から「悪性の糖尿病」という診断を受けたのが20年前、55歳前後だったと思う。ここで医者からの警告を真剣に受け止めて節制しておれば、その後の状態は変わっていたはずだ。しかし、八代は聞く耳をもたず、相変わらず豪快に飲み歩いていた。
自力歩行が出来なくなる
ご存じの通り、糖尿病が悪化すると、やがて循環機能がボロボロになる。そして、脳梗塞、脳出血で亡くなるケースが多い。なお、「糖尿病」が死亡の原因だとされることはない。
脳・心臓に支障がでて、あっけなく天に召されるならば、極度の病状の悪化から免れるので救いはある。一番、厄介なのは歩けなくなることだ。八代に歩行困難の兆候が現れ始めたのは5年前からだろう。まず歩幅が小さくなり、やがて「歩幅ゼロ」に近い歩き方になる。付き添っているこちらの気が焦るような歩きぶりだ。
さらに病状が悪化すると車椅子に頼らざるを得なくなる。こうなると完全復帰の可能性はゼロとなる。車から降りる際には他人の手が必要となる。年末にホテルで会った際には自力歩行が出来なくなっていた。だから音沙汰が無いことに不安を抱いていたのである。
末期は孤独な状態
この5年間で、八代は妻に経営の実権を奪われていた。病状につけこまれてのことである。家からも叩きだされ、この2年間は一人暮らしだった。子どもたちも寄り付かなくなった。そうなると病院、老人ホームの助けを借りる以外、生活の維持が出来なくなる。「老人ホームに駆け込む」選択が無難というか、選択肢はこれしかなかったのである。
さっそくお見舞いに行った。施設の玄関先に立つと「これは保証金3,000~4,000万円必要な高級老人ホームだ」というのが一目瞭然だった。スタッフの方々も品があり、人あたりが良かった。玄関先にある応接間で待たされた。八代はスタッフに車椅子を押されてやってきた。日常の行動も人の手を借りるしかないのだ。この光景を目の当たりにして筆者の目から涙がこぼれた。勢いがあったころの彼の面影が走馬灯のように浮かんできたのである。「もう再起の可能性は皆無だ」と直感した。
今回のテーマは「世間との交わり不能」=「死の状態」ということである。「生と死の分岐点」から生への蘇りは不可能ということなのだ。八代の足首を触ってみたら驚くほど細い。これでは体を支えて歩くことは不可能だ。「体重は何キロ?」と尋ねた。「50kg」という返事があったが、実際は50kgを切っていると思われた。筆者は衰えた八代の体を手の平に感じながら、「一体、彼にこれから何人の人が面会にきてくれるだろうか?」と不安を覚えた。彼はまだ頭は冴えている。毎日、八代は何を考えて生きていくのだろうか。