古代からの交通の要衝 日田街道「雑餉隈宿」が原型
「雑餉隈(ざっしょのくま)」──福岡県民(それも福岡都市圏在住)以外では、初見で読める人がいないほど難読地名として知られている場所だ。ただし、一般的に雑餉隈エリアといえば、多くの人々にとっての認識は、その地名を冠した西鉄天神大牟田線・雑餉隈駅の周辺エリア一帯の福岡市博多区内、といった感じだろう。しかし、実は博多区内に「雑餉隈」と付いた公称町名はなく、「雑餉隈」と付いているのはお隣・大野城市内の「雑餉隈町」だけだ。何とも不思議で奇妙な感じがするが、今回はその雑餉隈エリアについて、エリア内の歴史やエリア特性、開発動向などを取り上げてみたい。
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本誌vol.33(2021年2月末発刊)でも触れたが、現在の雑餉隈エリアを含めた博多区南部や大野城市、春日市の一帯では、約1万年前の旧石器時代から人間の生活が始まっていたとされている。弥生時代になると、我が国最古級の水田稲作遺構として有名な板付遺跡に近い立地もあって、現在の雑餉隈エリアでも平地全域には水田が広がり、人口や集落が急増。弥生時代前期末には、御笠川や那珂川の下流域に広がる福岡平野全体に、政治的統一体として「奴国」が成立したとされており、とくに春日丘陵とその周辺の平地一帯には拠点的集落が出現して、やがて“王”の存在が見られるようになったとされている。
8世紀以降の平安期になると、大陸と日本とを結ぶ貿易拠点都市・博多と、九州における政治の中心地であった遠の朝廷・大宰府を結ぶ中間地に位置していたことで、周辺では土地の争奪戦が繰り広げられ、たびたび領主が変わっていったとされている。そうした傾向は平安期から鎌倉期、室町期、安土桃山期に至るまで続き、このエリアは太宰府天満宮のほか、住吉神社や崇福寺などの博多の寺社、そして戦国大名などの所領としての変遷をたどっていった。その一方で、この地の農村では戦乱の激化とともに村の周囲に堀をめぐらせるなど、村人による自衛も行われていたようだ。
江戸期になると、黒田藩による増産政策の一環として、灌漑用の溜池や用水路などが盛んに造営された。これら溜池などの一部は現在も周辺各地に残っており、水辺を生かした公園などで利活用されている。また、筑前博多から太宰府を通って天領・日田に通じる「日田街道」(通称:太宰府往還)では、博多~二日市間の中間に位置する間の宿(あいのしゅく)として「雑餉隈宿」が設置。...

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