【北国巡り1】日本海沿いを制覇する

京都から福井で達成

 筆者は15年かけて、南は薩摩半島にある開聞岳の麓をスタートし、日本海沿いを北上して中国地方、北陸、新潟、山形、秋田、津軽半島、そして北海道西側沿いから稚内までの縦走を試みてきた。もちろん、スタート地点は、そのときの気分で変更していった。たとえば、飛行機で新潟まで飛び、レンタカーで津軽まで走る。ただ走るだけが目的ではない。各地の名所旧跡を探索しながら、紀行文をこのNetIB-NEWSに掲載してきた。至るところを走ってみて分かったことは、やはり自分の目で見ないと地理や地域の習慣などは理解できない、ということであった。

 たとえば、今回のケースでわかったのは、姉川が日本海側に流れ込んでいると思いこんでいたが、実際には琵琶湖に注いでいたということだ(次号で詳細に触れる)。今回は残ったコースを最終的に走行した。残りの区間は、京都府の舞鶴市から福井市までであった。6月27日から28日にかけて、京都から舞鶴を経て福井市まで完走したのである。昨年8月には金沢を起点に能登半島を一周し、富山に到達した。帰路は福井市まで引き返していたのだ。

能登半島地震のあとに訪れた現地の様子

物流面では日本海沿いが主役を担っていた事実

 昨年の能登半島巡りのルポを執筆したが、能登半島が最も活性化していたのは、「北前船航路」が活発だった江戸時代である。能登半島には、「北前船」が寄港する港が7港あった。1日に2~3艘が寄港し、荷の積み下ろしが活発に行われていた。

 荷下ろしだけでは商売にならない。港周辺では地元名産の生産もないと繁栄が成り立たないのは自明の理だ。こうして、海運の荷下ろし・積み込みが多いほど産業も隆盛を誇る。また産業が元気であれば、地元勤労者の稼ぎが増える。豊かな光景が目に浮かんできた。この「北前船航路」は1935(昭和10)年ごろまで続いたらしい。

筆者が宿にした 1911(明治44)年創業の料亭「松月」)
筆者が宿にした 1911(明治44)年創業の料亭「松月」)

富山市・東岩瀬の功労

 富山城から約10kmの場所に「東岩瀬」という地名の集落がある。ここが北前船の港として機能していた。江戸時代は、この港から米が積み出され、全国に運ばれた。周囲には加賀藩の米蔵が設けられていたという。北海道からは、昆布や肥料となるニシンなどが運び込まれていた。さらにこの地区では酒造や醤油の産業が集積された。現在も酒蔵が数多く見受けられる。この東岩瀬地区の人口は、かつて2万人いたとされるが、この隆盛もまた35年ごろまで続いたと説明を受けた。

 加賀藩、福井藩も同様であった。それぞれ北前船の寄港地をもっており米の積み出しで稼ぎ、北海道からの廻船による魚介類を豊かな食生活に活用していたようである。

岩瀬地区の観光案内図
岩瀬地区の観光案内図

酒田市の思い出

 もう5年も前になるか。新潟市から山形県酒田市まで走った。日本海沿岸巡りで最も感動し、今でも記憶に残っているのが酒田市である。というより、酒田市が生んだ本間一族のことである。もともと、酒田市一帯は中世時代から港湾で活況を呈していた。1672年、西回り航路が確立し、その時点から酒田港の繁栄が始まった。「西の堺、東の酒田」と言われたのである。

 この港湾ビジネスを牛耳っていたのが本間家である。地元のことわざに次のような有名なものがある。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と、今でも地元で言い伝えられている。つまり、地元の人々は「庄内藩の殿様よりもはるかに本間様のほうが絶大なる権力を誇り、地元の為に貢献してきた」と尊敬の念を抱いているのである。このような風土の感覚は、現地に立たないとわからない。

 また、冬場の西風の凄まじさも我々にはわからない。しかし想像はつく。風の強さには耐えられても、強風は塩風となる。これをまともに受けていては、人間にとって冬の生活は困難であることは想像できる。だから至るところに防風林が林立している。酒田市の南方では、九州では見られない頑強な防風林に遭遇した。「九州では考えられない潮風が襲ってくるのだな」と直感した。地元の方に尋ねた。「防風林は、地元の方々の協力で育ててきたのですか?」と。「いやぁ、基本は本間さんが植林して育て、守ってくれたのです」との説明を受けた。凄い一族である。

戊辰戦争では地元・庄内藩に肩入れ

 戊辰戦争の際、庄内藩は東北地域での戦いで善戦し、官軍と最後まで戦った。庄内藩は現在の酒田市を統括していた。庄内藩は徳川家と血縁関係にあり、佐幕側の中核藩であった。戦いでは勝てない。軍事力=武力で優勢でなければ勝負にならない。本間家は庄内藩に莫大な資金をつぎ込んで当時の最先端のミニエー銃を買い集めて提供した(一部には大砲まで供給したという説もある)。そこまで肩入れした起業家を筆者は耳にしたことがない。筆者はこの本間家に私淑し、それゆえに酒田市を愛する。もう一度、訪問しようと計画している。

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