【北国巡り5】琵琶湖周航の歌 彦根の威力

愚かな浅井長政

 もう少し“ボンボン”浅井長政の愚かさを追記する。長政と市(信長の妹)との間に3人の娘が生まれた。男は一人で、若くして処刑されたという。3人の娘の名前は長女・茶々、次女・初、三女・お江である。まず市は、長政の戦死後、信長の筆頭武将・柴田勝家と再婚した。信長暗殺後、後継者をめぐる対立が勝家と秀吉の間に生じる。この後継者争いにて勝家は敗死する。それにともなって市も自決した。壮絶なドラマである。

 娘たちの結末は、長女・茶々は秀吉の側室となり、豊臣二代目・秀頼を産む。次女・初は名門・京極家に嫁ぐ。晩節には初が一番、気楽に生きながらえたようだ。三女・お江は三回目の結婚相手が徳川政権二代目・秀忠である。大坂夏の陣で、長女・茶々は秀頼とともに自害した。戦の相手は妹・お江の夫・秀忠率いる徳川軍である。戦国時代にはさまざまな人間模様のドラマが無数にある。一男三女の悲劇の結末は、戦国時代最高のストーリーになると言って過言ではないだろう。我が子4名を地獄に巻き込んだ長政の判断は、愚かとしかいいようがない。

新幹線の駅で有名な米原

 東海道新幹線に乗れば、米原という駅を耳にするから、誰でも知っているであろう。米原の存在感は交通結節点であることだ。昔から中山道と北陸道の分岐点にあたる交通の要所である。戦国時代には、特筆すべき歴史上の事件はない。関ヶ原の戦場は東に20km離れている。新幹線の開通は1964年である。この時点から一躍、名前が響き渡った。人口は3万6,711人(7月1日時点)であるから、中核市としての機能はない。また、米原市の面積の大半は、北部に当たる一面が山岳地域、山林区域で覆われている。経済活動できる面積が乏しいことがネックとなっているようだ。車を停止させて街並みを歩いてみたが、あまり活気がないことしか記憶に残っていない。

ロマンあふれる長浜市

 だが、強烈な印象を受けたのは「琵琶湖周航の歌」が流れているのを耳にしたときである。長浜市の桟橋から、琵琶湖ツアーの定期船が離発着をしている。この桟橋で「琵琶湖周航の歌」が流れているのである。歌い手は加藤登紀子さんだ。旧制第三高等学校(今の京都大学の総合人間学部の前身)の寮歌として知られている。

     我は湖(うみ)の子   放浪(さすらい)の
     旅にしあれば  しみじみと
     昇る狭霧や   さざなみの
     志賀の都よ   いざさらば

 この歌には若き日の思い出が山積している。耳にすれば涙が流れる。あふれる涙をハンカチでふいた。

   2番
     松は緑に     砂白き
     雄松が里の    乙女子は
     赤い椿の     森陰に
     はかない恋に   泣くとかや

   3番
     波のまにまに     漂えば
     赤い泊火(とまりび) 懐しみ
     行方定めぬ      浪枕
     今日は今津か     長浜か

 この3番の歌詞はヨット部が琵琶湖巡りをしながら作詞されたと筆者は60年前に聞かされた。涙がこぼれるのは当然のこと。戦国時代の回顧ばかりしていたのが、突然、長浜においては大正、昭和初めの旧三高時代に到達していた。

    4番
      瑠璃の花園    珊瑚の宮
      古い伝えの    竹生(ちくぶ)島
      仏のみ手に    いだかれて
      眠れ乙女子    安らけく

 長浜市の人口は11万1,564人(7月1日時点)である。この市にはさまざまな産業の工場が進出している。街並みを歩いても米原市と比較にならない程、人が多く活気を感じる。歴史資産と現代産業と琵琶湖の観光財産をフル活用して都市の活性化に励んでいる。財政面でも「豊かだな」と確信した。長浜城、テニス場、琵琶湖遊覧船乗り場を含めた広い市民公園を支える駐車場が横たわっている。ここの使用料が無料なのには驚いた。全国回っても「使用料タダ」というのは珍しい(もちろん、時間規制はある)。

彦根市は県内第二都市として貢献

 江戸時代、家康から彦根の統括を命じられたのは井伊家である。「西の押さえ=豊臣家押さえ込み」の先端基地役の機能をフル稼働するという任務があった。ところが豊臣家陣営が大坂の陣で滅亡することとなり、「西の押さえ」役の機能は薄れていったが、江戸時代を通じて彦根の町はにぎわいを持続していた。そして現在、人口11万508人(4月1日時点)を要して滋賀県第3の都市として多大なる経済貢献をしている。

 もともと、井伊家は現在の浜松市の出であった。その周辺を統括していた家柄であったようだ。当然、駿府の覇者・今川家と衝突となり、井伊家は踏み潰される。今川家頭領が織田信長に首を取られた。家康も「ここが勝負」と決断して松平家再建に奔走する。強靱な幹部招集に励んでいたときに井伊直政にめぐり合う。そして松平家筆頭家老の席を占めるに至った。「井伊の赤備え」の軍団編成、旗印を目撃したならば敵方は戦意を喪失すると言われてきた。井伊家は家康から絶大なる信用を得た。幕末の徳川政権末期を迎えても大老に井伊直弼が抜擢された。松平家時代から始まり徳川幕府が倒れるまで井伊家は終始、頼られてきたのである。

 彦根城は平山城(高いところで海抜50m)というべき部類になる。筆者も全国の城をこれまで数えきれないほど視察してきた。一言でいえば「迫力満点・堅守城」と評する。かなりの観光客(インバウンド含む)が押し寄せてきていた。人力車にも乗ってみたが、本当に手入れされた城であった。

(4)

関連キーワード

関連記事