子どもの年収を上げる教育法は何だろうか。多くの人は偏差値の高い大学に行くことを考えるかもしれないが、どうもそればかりではないようだ。経済学の研究では、「偏差値の高い高校とか大学に行くということが、必ずしもその後の年収を高める因果効果があるとはいえない」という結果の研究が多い。実はそれよりも、もっと若い段階でさまざまな経験を、思考を働かせることをしている子が、より効果的に社会での評価を得ているのではないかと。図らずともそんな子は、結果的に勉強というステージでも高い点数を叩き出している。なぜなら彼らは、知らず知らずのうちに学び方を会得しているからだ。
“勉強”って何だ?
受験を乗り越えてきた子どもたちは大学に入って、散々これまで勉強をしてきたのだから、勉強じゃないことをやりたいという。幼少期からひたすら受験に向けて勉強してきた人(多額の教育費を投じてもらった恵まれた子どもたち)は、大学生になってようやく、自由に創造的な活動ができる段階になる。ここに来るまでに、かなりの知的好奇心を失ってきたんだなと見受けられる生徒も多い。要はそういう人たちは、勉強を“苦行”だと捉えているのだ(現代の大人が“仕事を苦行だ”と感じる感情と同じか…)。
本来、勉強や新しいことを学ぶことは刺激的で、楽しいこと。そうではないような状況に、高校生活まで置かれてきてしまっていることに問題がありそうだ。「大学受験」という10代最大のイベント―若い人たちにとって「受験」とは、望ましい通過点になっているのだろうか。受験は「短期目標」で本来、大学はゴールではない。社会人になって必要とされる能力と、受験で身に付けた能力とは、かなり隔たりがある。社会に出てからの人生のほうが長いし、社会に出てから何をするかが楽しさなのだから、受験という短期の目標だけで人を育ててはいけない。価値ある「何か」をこれから探すときなのだから。
長い人生で役に立つスキルについて、私たちはもう少ししっかりと考えなければならない。(一社)日本経済団体連合会(経団連)が出している「新卒の採用で重視するスキル」第1位は、16年連続で「コミュニケーション能力」。しかし我々大人は、“勉強だけできたって活躍できるわけじゃない”ということを、社会に出てから知ることになる。どういう人が採用されるかというと「コミュ力が高い人」「誠実な人」「勤勉な人」「責任感がある人」…。どんな人と結婚したいですか?と聞かれると「誠実な人」「勤勉な人」「思いやりのある人」…で、誰も「テストの点数が高い人」とは言わない。我々は大人になってから必要なスキルが、何なのかを知っている。にもかかわらず、子どもを育てるときはなぜか目の前の「受験」のアウトカム(成果、結果、効果)に夢中になっているという矛盾。ある会社では、社内の業務業績とその人の出た学校の偏差値には、相関関係がまったくなかったという。
「社会人になって必要な能力は何か?」と改めて考えてみると、そこで学力が高い人とか、計算が早い人とか、記憶力が良い人みたいな話は、ほとんど出てこない。むしろ人をまとめる力があるとか、誠実である、主体的であるとか、やり抜く力がある、リーダーシップをとった経験があるといった能力が、実は社会人になってから(働き始めてから)効果を発揮する。受験に役立つような5教科の勉強をすることだけにとどまらず、たとえばスポーツをするとか、生徒会やボランティアなどの経験をするなど、そういったことが現実的な社会生活のなかですごく役に立つことに、後から気づかされるのだ。
企業にも責任がある
そんなふうになってしまったのは、企業側にも責任がある。かつての労働市場では、個性のある子どもよりは、従順で平均的な人材を欲しがった時代があった。同じことをみんなで一斉にやる、1つの歯車となって会社の指示に従い、文句も言わず黙々と働く労働者(後に彼らは企業戦士と呼ばれる)。学校でいえば、先生の言うことをよく聞き、校則を守り、目立ったことをしないで他の生徒と協調し、一生懸命に勉強する生徒。つまり、権力者や会社の上司など、上に立つ人の方針や考えを踏まえて行動する人、もっといえば、経営者の意向を汲み取り、忖度できる人が必要だった。
“白紙の状態で大学から会社にきてほしい、その後は企業側で育てるから”と暗黙のラブコールを送った。そのような人を育てるために、学校はデザインされていたかのように。国語の入試問題で「著者の意見」を問うのは、上の人の意見を理解できる人間を育てるためだ(本来なら“あなたの意見は?”を聞かなければならない)。戦後、高度経済成長期時代にそんな人材が欲しいといったのは、経済界だったのだ。
現行の仕組みは新卒一括採用なので、面接や審査で中身を1人ひとりしっかり見ることができない。しかし徐々に、企業側の選考基準も変化してきている。人材確保の基準を学歴だけではなく、新しい機軸を設けたいと。今の企業が欲しがっている人材は、「学び方」を知っている人。そういう人は放っておいてもどんどん伸びていくわけだから、「学び方を学んできた人」を採用したいと思っているわけだ。
まず投資すべきは“教育”
「大学をどう運営するか…」、地方創生のカギになる面白い考えがある。一番良い地方創生は、「公教育に投資すること」だと。「土地が先か、学校教育の質が先か」という議論は多々ある。地価が高いところに所得の高い人が集まってきて、結果、子どもたちの学力が高いというケースもあれば、逆もある。学校の教育の質が高くなることによって、そこに教育熱心な家族が流入し、結果、土地の価格が高くなるという流れ。さまざまな実証研究から、実は後者のほうが有力視される傾向にある。いくら魅力的な働く場所があっても、質の高い教育がなければ、そこに住むことは嫌われるからだ。そう、“学校の教育の質”が先なのだ。公教育に投資すれば、その周りに教育熱心な家族が移住してくる。そのことによって街の税収が増え、さまざまなことに再投資ができる。教育に先に投資をすることは、学校の再建、まちづくり、ひいては地方創生のカギになるという手法。日本でもそんな学区は人気も高く、地価が下がらない。街自体にも活気がある。
フランスには、グランゼコールという学校がある。教員や研究者、政治家、官僚などになるための必要な専門知識を学び、国家や産業のリーダーとなるエリート人材を育成する。大学の上位に位置づけられるフランス独自の高度教育機関で、その数はフランス全土で180カ所にものぼる。そう、フランスでは高度な教育環境が一極集中せず、地方にも均等に存在している。日産自動車(株)の元CEO・カルロス・ゴーン氏も、グランゼコール出身だ。1学年50~300名程度の少数精鋭体制で、各地域の商工会議所が運営している。
もう1つ特徴的なのは、税金を「国に払う」か「グランゼコールに払う(正確には商工会議所に払う)」か、市民が選べるところ。教育に投資すべきだと考える国民が、子どもたちを直接支える仕組みができているのだ。グランゼコールの役割は、単に人材育成にとどまらず、その後の地域の人材確保にまでおよぶ。つまり、教育の場と働く場をセットで地域に産み落とすという、地方社会永続の役割も担っているのだ。
「日本版グランゼコール」
企業が学生に学費を支援し、「連携講座」や「企業実習」で、その業界の知識や技術を学ぶ。その後、支援してくれた企業で働くことができる流れも創出する。地元企業にインターンさせて、その後の就職まで。要は、地元企業による囲い込みがされ、エリート流出を防ぐのだ。これは、フランス型の地域癒着構造になっていて、グランゼコールと企業を連携させることで、人材と企業を地域に定着させる循環をつくる。「内からどうやって人を出さないようにするか」、欧米型地域での人材囲い込み施策というわけだ。企業も地方で人材が確保できれば、地方から出ていかなくてよくなる。また、地元の人は自分の子を地元のグランゼコールにうまく入れるという。正当な競争のなかで、地域を永続的に、活況に回していくために、地元人優先枠のような駆け引きなんかがあってもいいのだ。この仕組みが機能しているから、地方の衰退が防げる。結果、フランスは人口過密を和らげ、パリを中心とした一極集中を緩和することにも一役買っている。
日本でも、企業が地方から出ていかない産業構造がある。たとえば_①三河・遠州…(自動車関連)トヨタ、ヤマハ、SUZUKI、DENSOなど。_②京都…(弱電関連)KYOCERA、SHIMAZU、OMRON、Nidec、村田製作所など。産業の技術的構造や商流が確固にできている地域だからこそ、“抜けると損する”という歯車がうまく機能しているのだろう(日本の例は少数で、多くの大企業は首都圏に本社を移す。大阪は、東京にほとんど持っていかれたといえる。東京は地方から企業も人も吸い取りまくり、ゆえに超がつくほど巨大化した)。
日本には、全国津々浦々に中小さまざまな産業が、地の利を生かして存在している。地域で企業を囲い込むのは、日本では親和性が高いのではないだろうか。産業がまだ元気に稼働しているうちに、商流・技術で囲まれた「日本版グランゼコール」を稼働させていくのも面白い。
大学に何を見るか
人は、学歴で差がつくと思いがちだが、実際には自分だけの考え方や、創作活動をコツコツ蓄積してきた人が、社会に出てからも強いように思う。どんな大学を出ようと、自分自身の言葉で語れなければ結局は差がつかないし、あるいはやりたいことが見つからずに停滞してしまう。そのテーマがあれば、長く続けていくこともできる。その学校で学びたいことを見つけられるのか、生涯夢中になれることに、そこでの学びを役立てられるか。見なければならない部分は、そこではないだろうか。
大学側の課題もある。大学は、入口での選考に力を入れ過ぎている。入口で厳しい査定を課して、なかでどのような成果があったのか問われないというのは、どう考えてもおかしな仕組み。入口の審査、受験のところではなく、出口でちゃんと結果・成果を問うようにしなければならない。「高校受験があるから中学生は受験勉強をする」…入口のセレクションで何を求められてくるかという点は、若い人たちの行動原理に強い影響を与えるということを、十分に理解しなければならない。日本の大学は大き過ぎ、多過ぎる。大学全入時代、トップ校は依然競争が激しく残るだろうが、ボリュームゾーンでは誰でも入ることができる環境にある。大学側もそのなかで特色を出し、何かに特化するという戦略をもった大学である必要がある。たとえば、このような大学が地方にある。
秋田・国際教養大学(AIU)
2004年、秋田市に創立した国際教養大学 (AIU)、日本初の地方独立行政法人(地独)の運営による単科大学だ。日本では18歳人口が減少し、「大学全入時代」と言われるなか、受験生の入試倍率は10倍、卒業生の就職率は100%。秋田市内からクルマで30分、都会の華やかさとは無縁の、緑に囲まれた大学。その場所に全国各地から学生が集まってくる。人気の理由は、①「すべての授業を英語で実施」、②「新入生は学生寮で留学生と共同生活」、③「在学中に1年間の海外留学を義務づけ」といった独自の教育システムにある。
国際教養大学は、その理念として「英語をはじめとする外国語の卓越したコミュニケーション能力と豊かな教養、グローバルな専門知識を身に付けた実践力のある人材を養成し、国際社会と地域社会に貢献すること」を掲げている。
本当の専門教育は、大学院に進んでからやるのが世界の高等教育。大学4年間でやっておくべきは、スキルや資格の取得ではなく、広く深い教養。これからの時代は「リベラルアーツ(教養)」が重要だと、初代理事長・学長・中嶋嶺雄氏は説いている。
また中嶋氏は、以下のようにも訴えていた。
教育は国家的な未来への投資だ。これまで日本は“教える”ばかりで“育てる”をしていない。欧米ではリベラルアーツが大学教育の中心。大学の4年間は広く深く教養を学び、自己発見のための学問的素養を育まなければならないと。日本の教育を変えるには、伝統やブランドではなく、新しい教育観で学校を選ぶことだと(参考文献:「世界に通用する子どもの育て方」_中嶋嶺雄)。
(つづく)
<プロフィール>
松岡秀樹(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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