灌漑農耕の始まりと大水田

縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一

 前回はアズキ栽培が日本列島内で始まったことを書きました。赤いアズキが1万3,000年前頃から増え始めていることから、そのころから日本列島では農耕栽培を行っていたのです。それはメソポタミアで農耕が始まるよりも5,000年も早いのです。

 今回はそれに引き続き、世界初の灌漑農耕について見ていきます。以前は、水田稲作が開始された地域にはさまざまな説がありました。しかし近年では約1万年前の江南地方で開始されたことで結論が出ているようです。それに基づいて考えていきます。

 まず、水田による灌漑農耕が始まったとされる約1万年前の江南地方の様子を見ておきます。江南地方の浙江における新石器時代の文化は上山(じょうざん)文化(約1万1,000~8,600年前)から始まります。男性の全身骨格が発掘されており、屈葬されていました。屈葬は日本の縄文時代における埋葬様式です。

 上山文化の遺跡は18カ所で発掘されていて、そのすべてが河川流域に存在しています。世界の古代文化の担い手は、縄文人と同じく水上交通を行っていたのです。
 江南地方では1万年前以前から縄文をもつ土器が使用され、研磨・穿孔(せんこう)をともなう石器や骨角器が登場し、旧石器時代からの技術の躍進が見られます。その人々は縄文人と同じ技術をもっていたのです。

 長江文明の遺跡がある吊桶環(ちょうとうかん)や仙人洞(せんにんどう)、玉蟾岩(ぎょくせんがん)の辺りは沼地だらけです。その沼地に自生していた野生の稲を見つけて栽培化したと考えられています。ここは野生稲が自生する北限地帯だったのです。

 最初はジャポニカ米とインディカ米、ごちゃ混ぜの状態でしたが、紀元前8,000年頃(約1万年前)になると栽培稲だと確定できるそうです。上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲が見つかっています。

 長江流域で稲作が本格化したのは8,000年前頃とされています。代表は河姆渡(かぼと)文化(約7,000~5,300年前)で、河姆渡遺跡(浙江省余姚市)の人骨はみな屈葬されているのです。余姚市では稲作が本格化した8,000年前頃の貝塚が発掘されています。

 そして当時の東アジアでは縄文人の編布(あんぎん)が広い地域で使用されていました。それは河姆渡文化固有のものではなく、長江下流域共通の編布であったと指摘されています。

 さらに長江流域にはたくさんの甕棺墓が存在しており、時期が古いほど甕棺には幼児あるいは嬰児が葬られています。これも日本列島内の傾向と一致しています。縄文集落では甕棺に幼児や嬰児の遺体を入れて葬っていましたが、弥生時代になると大人の甕棺葬となっていきます。

 このように、中国南方で世界最古の水田稲作を始め、それを本格化させた人々は、縄文人と同じ技術や習俗をもっていたのです。

 さて、日本民族のご先祖さま(縄文人)は、前回ご紹介したように中国南部にあった野生のヤブツルアズキを、少なくとも1万3,000年前には日本列島に持ち帰っています。つまり、少なくとも1万3,000年前には中国南部には縄文人が進出していたということです。その人々が日本列島に戻ってから、世界最古のアズキ農耕を始めたのです。

 これらを整理すると、少なくとも1万3,000年前には縄文人が中国南部に進出していて、その地に縄文土器や磨製石器、甕棺、編布などの遺物を残し、貝塚をつくり、水上交通を行い、屈葬を行っていたのです。日本列島ではすでに農耕を開始していて、その農業技術をもっていた縄文人が、約1万年前に江南地方において水田稲作を始めたのです。

 ただし、水田とは言ってもまだ灌漑施設は備わっておらず、雨水を利用した天水田でした。そうした天水田は東南アジアに残っていて、やはり灌漑用水路がありません。こうした水田は日照りに非常に弱いのです。

 江南地方では河姆渡文化期の後、良渚(りょうちょ)文化期(約5,300~4,300年前)になって外囲水利システムが誕生しています。それでもまだ日本の水田ほどの完成形にはたどり着いていません。日本のように畔で明確に区画され、灌漑施設を備えた定型化した畦畔をもつ水田址は中国では見つかっていないのです。

 その畦畔を備えた世界最古の水田址は、朝鮮半島南部で見つかっています。玉峴(おくきょん)遺跡、麻田里(までんり)遺跡、琴川里(じぇむちぇおんり)遺跡などですが、どれも一区画がわずか1~10m2しかありません。そんな小水田では集落のお腹は満たせません。おそらくその小水田で水利システムの完成を試みていたのでしょう。つまりテストプラントだったのだと考えられます。ここで水利システムを完成させて本国日本へと帰ってきたのです。

 これまで学者は弥生人とは、朝鮮半島から稲作技術を伝えに日本列島に渡来してきた人々であるとしていました。その人々は朝鮮民族であり、日本に技術を伝えにきた“稲作渡来民”と呼ぶ学者もいました。これは私の説明とまったく異なります。

 まず、紀元前10世紀以降に日本列島各地に水田稲作が広がっていきます。紀元前4世紀には青森県にまで広がっています。それに対して朝鮮半島では17世紀後半になって初めて水田による田植えが始まっています。それまでは直まきであり、種を土に直接まいていたのです。そして1年ごとに土地を休ませる休閑法でした。それまで朝鮮半島の人々は水田を知らなかったのです。つまり弥生人とは異民族などではなく、大陸に進出していった縄文人が戻ってきただけの話です。

 それが核DNA分析から実証されることになりました。2020(令和2)年に金沢大学などが発表した、『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』(PDF)という論文です。これのポイントは、第一弾の混血は弥生時代に北東アジア祖先集団との間に起こり、第二弾の混血は古墳時代に東アジアに起源をもつ集団との間に起きたということです。つまり弥生時代には朝鮮人の渡来などなかったことが遺伝子から明らかとなったのです。朝鮮系の人々の流入は、古墳時代以降になってからなのです。

 この日本民族三重構造説は後に、理化学研究所が発表した『全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴』という論文で裏付けられることになりました。それまでのデータ数の少なさを補い、3,256人分の日本人の全ゲノム情報を分析した結果であり、この結論はもう覆ることはないでしょう。

 たしかに弥生時代に外来遺伝子の流入がありますが、これは北東アジア民族の遺伝子であって、江南地方や朝鮮半島の異民族などではありません。日本列島に水田稲作を広めた弥生人とは、異民族の渡来民などではなく、縄文人の帰還民で間違いないのです。
 その人々は朝鮮半島南部で灌漑施設を完成させて日本に戻ってきました。そのため日本列島では最初から大水田が登場します。テストプラントは存在しないのです。ですから完成形の灌漑施設をもつ大水田が、いきなり日本列島各地に存在していくことになります。

板付遺跡復元模型(筆者撮影) 板付遺跡弥生館所蔵
板付遺跡復元模型(筆者撮影)
板付遺跡弥生館所蔵

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