福岡大学名誉教授 大嶋仁
ここ数十年前から欧米の知識層に定着している用語に「ナラティブ」がある。「物語言説」とも訳せるが、「筋書き」と訳したほうがわかりよい。
この用語の根源にはフロイトがある。フロイトは人間の言っていることは文字通りに受け取るべきではなく、それを言っている本人も意識しない「無意識の思想」が反映されていると主張した。これを整理したのがラカンで、ラカンを通じて、「ナラティブ」という語が20世紀終盤の欧米の知識世界でもてはやされるようになったのである。
たとえば「理念」の代わりにこの語を用いると、理念が一種の「偽装」に過ぎず、本音は別のところにあると思えてくる。公に発される理念は本音の偽装に過ぎず、その言葉を発する本人も、それを聞く人も、これを真に受けてはならないことになるのである。
もっと身近な例としては振り込め詐欺がある。そのナラティブは金をだまし取るための嘘に過ぎないのだが、その嘘に引っかかる人がいるからこれが成り立つのである。ナラティブの力は侮れない。
ナラティブの力を政治に応用して成功すると、人は政治家になれる。一国の政治は多くの人が受け入れそうなナラティブをもつことによって成り立つのであり、他国の前で体裁を整えるのにも役立つし、自国民の支持を得るのにも役立つ。
本稿の主人公である江学勤は、地政学をナラティブの観点から整理するのが得意である。彼は政治システムを考える場合に、まずはその根底に欲望の渦まく経済の下層があることを指摘する。そして、そのうえに行政構造体があり、その燃料が経済的欲望にあるというのである。
だが、それだけでは行政は機能しない。そのさらに上に、すべてを正当化するナラティブという表層がなくてはならない。これが彼のナラティブ論の骨子で、人類の戦争は古から今までナラティブによる戦いだということになる。
人が欲望に従って動くだけでは戦争は起こらない。その欲望を正当化するとともに制御もする司令塔があって、初めて人は戦に出られるのだ。ナラティブとはその司令塔から発せられる、人々を鼓舞する「物語」を意味するのである。
このようなナラティブ論は決して江学勤の独創ではない。そもそも彼には独創的な理論といったものはない。あるのは明確なヴィジョンで、世界情勢を簡潔な全体像として捉えることが得意なのである。
江学勤のナラティブ論の応用例を見てみよう。彼の中東情勢の見方に、それが端的に現れている。
彼はまず「中東情勢の不安定は第二次世界大戦が終わった時点で始まった」という。イギリスが勝手につくったイスラエル建国プランを国連が承認したからである。この時点でつくられたナラティブは、「ナチスによるホロコーストの犠牲者にして国家をもたない不幸なユダヤ人たちのために国家を建設せねばならない」というものだった。イスラエルに入植するユダヤ人たちはこれを信じ、世界もまたこれを支持した。
この入植が無理だったことは明白だ。イスラエル国家建設のために選ばれた土地は、すでにアラブ人(具体的にはパレスチナ人)が居住する土地だったからだ。新参の入植者たちにすれば、この土地は『聖書』が示す「約束の地」だという思いがあり、この種の宗教じみたナラティブが力をもつと、人は命を国に捧げたくなるのである。彼らはひるまず入植を続け、徐々にパレスチナ人をその土地から追い出していった。
前々からそこに居住していたパレスチナ人からすれば、自分たちの住んでいた土地にいきなり余所者が「西欧の威」を借りて入ってきたのだから、たまったものではない。そこで両者の間に紛争が始まり、今に至るまで戦闘状態が続いている。
イスラエルは人口も少なく、戦闘意欲はあっても軍事力は大したものではなかった。これを援助したのがアメリカを中心とする西欧である。西欧からすれば、イスラエルを介してアラブ世界を支配でき、その豊富な石油を我がものにできる。しかし、そうした本音は表には出さず、「ホロコーストの犠牲者」というナラティブがこれを隠した。
ここまでは江学勤を持ち出すまでもないことで、ほとんど定説といってもよいほどだ。江学勤の優れている点は、その定説を踏まえたうえで、いかなるナラティブも時とともに威力を失うことを強調している点にあり、そのナラティブを絶望的になってまでも維持しようとすると必ず大失敗すると警告を発している点にある。
同じナラティブを維持し続けるには、絶えず「燃料」を注ぎ込む必要があると彼はいう。イスラエルの場合は、その周囲の世界すべてを「敵」とみなすことで自らのナラティブを強化してきたのであり、そのために戦争を続けているのである。イランという存在がクローズアップされたのも、イスラエルが己れのナラティブを強化するために「強力な敵」を必要としたからだ、と江学勤はいう。そして、そのナラティブは、それに固執すればするほど惨めな終わりを迎えるというのである。
(つづく)








