福岡大学名誉教授 大嶋仁
江学勤がイエール大学で英文学を専攻したことは彼の資質を知る上で重要である。数学よりも文学を好んだかどうかは別として、彼は文学と言語の世界、中国式にいうと「文」の世界に入り込んだのである。
彼が文化的な意味で「中国人」であることも重要だ。中華文明において重要なのは「文」であり、文学的知識があるかないかが知性の分かれ目だからである。明らかに彼には文人の趣がある。読書人の風貌がある。と同時に、戦国時代の諸子百家のように、自身の弁舌を売り込む旺盛さもある。
そもそも中華における「文」とはなにか。漢詩文はもちろんのこと、諸子百家の思想と『十八史略』にはじまる史書も「文」なのである。江学勤の英語には欧米人にはない独特の切れ味と簡潔さがある。これは1つの魅力で、彼がYouTuber として成功しているのはそのおかげである。
さて、その江学勤が「アメリカ帝国」の診断をしている。それによれば、この帝国は「末期癌の症状」を呈している。以下、その診断を要約する。
彼の診断はイギリス人ジョン・グラッブの『帝国の運命』に依拠していると本人がいう。グラッブは大英帝国の崩壊を目の当たりにした軍人であり、世界の大文明の発生から崩壊までを研究し、そこに共通のパターンを見つけたのである。江学勤はグラッブの論を全面的に支持し、この英国人のいうことはアメリカ250年の歴史にぴたりと当てはまるという。
グラッブによれば、帝国はその発生時において文明建設のナラティブを人々が信じ、皆で文明を築いていこうという意欲に満ちたものである。これをアメリカ史に即していえば、アメリカは建国当初から文明建設の方向性をもち、第二次世界大戦までその方向で前進を続けたというのである。
アメリカ帝国の第2期は大戦で戦勝国の筆頭となった後、自国の文明を高レベルに保つために経済発展を重視するようになった1960年代を指す。この時期に労働力と生産力が著しく向上し、アメリカは黄金時代を迎えたのだ。
ところが、この時期に起こったベトナム戦争がきっかけとなって、経済の中心が軍需産業になるという異変が起こる。この異変が70年代から80年代にかけての第3期を特徴づけるものであり、アメリカ政府は「戦争」のために軍隊や軍需産業を必要とするのではなく、むしろ「軍隊と軍需産業」のために戦争をすることになったのである。まさに、本末転倒である。
一方、国民はというと、この時期に「安逸」を貪るようになり、物質的満足をひたすら求めるようになる。それまでは規律の取れた生活をしていたのに、義務より権利を主張するようになったのである。表面的には世界支配を確立した時代なのに、アメリカ帝国には翳りが見え始めていた。
すでに述べたように、江学勤は現在のアメリカを帝国滅亡の第4期に突入したと言っている。癌でいうファイナル・ステージなのだ。
その兆候として、彼は現在進行中のイランとの戦争を挙げる。もはや戦争に勝とうが負けようがどうでもよく、予算があろうがなかろうが、戦争を続ける事態になっているというのである。
トランプに理性的判断が少しも見られないのは、トランプが耄碌しているからではなく、帝国のシステムそのものが自滅に向かっているからだと江学勤はいう。イラン戦争は「アメリカの戦争」ではなく「イスラエルの戦争」だといわれるが、江学勤は、それは「表面しか見ない者」の意見だという。
理性を失ったアメリカ帝国にとって、イスラエルは帝国の一部に過ぎず、そこでの戦争は帝国の燃料とならねばならない。人はネタニヤフがアメリカを扇動しているなどというが、実はその逆だと江学勤はいう。イスラエルは病んでいる帝国の意思で動いているだけだ、というのである。
さて、以上の江学勤の論は近代日本史にも当てはまるように思える。日本の場合は帝国主義戦争に負けたので「帝国の運命」をたどったわけではないが、明治維新が「文明建設」をナラティブとして始まったその時点から、日本が帝国を目指したことは明らかである。
台湾を征服し、朝鮮半島を支配下に置き、さらには満州国を建設する。これで「大日本帝国」が出来上がったのである。
しかし、ここからが帝国終焉への道となる。その出発点は日華事変である。中国本土を攻めた日本は、最初こそうまくいったように見えるが、1年後には苦戦し始め、勝利が見えてこなくなる。そこであきらめるかと思えばその逆で、戦線を太平洋と南アジアに拡大して決定的敗北の道に突入するのである。
「大東亜共栄圏」のナラティブはそのときになって浮上する。しかし、政治システムと軍事システムの自己崩壊はそうしたナラティブで覆いきれるものではなく、ついに「一億玉砕」というナラティブに置き換えられて破局に向かったのである。日本の敗戦は原爆投下によるのではなく、東京大空襲によるのでもなく、夢見た帝国のシステム崩壊による。これが江学勤流の近代日本史観である。
(つづく)








