縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一
紀元前10世紀から日本国内に大水田が広がっていきます。国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎教授の解説によると、前8世紀終わりごろには九州東部・中部でも本格的に始まっています。水田は北上していき、山陰側は前7世紀に鳥取平野まで到達、四国側は前6世紀に徳島市まで到達しています。
そして、近畿地方では前7世紀に神戸市付近、前6世紀には奈良盆地で始まり、伊勢湾沿岸地域にも前6世紀中頃までに到達しているという。そうすると神武東征が前7世紀とするのも合理的に理解できそうです。前7世紀にナガスネヒコとの戦いに勝利してから、ムラを開き、大水田の開墾に取りくみはじめ、その完成が紀元前6世紀となるのは論理的です。前5世紀には、奈良県御所(ごぜ)市で当時国内最大の水田が営まれていました。なんとその総面積は、10万平方メートルをはるかに超える可能性があるとされています。
その後、伊勢湾沿岸地域から先は、近畿の日本海側を経由して一気に東北北部まで北上します。前4世紀前葉には青森県弘前市にまで到達。前4世紀代には仙台平野、福島県いわき地域でも水田稲作が始まっているようです。太平洋側のルートは、前3世紀になってから中部高地、関東南部に到達しました。不思議に思えるかもしれませんが、関東地方は東北地方よりも水田稲作の開始が遅れるのです。それは、当時の主たる移動手段が水上交通に依っていたからでしょう。当時は日本海側のほうが、表日本だったのです。
こうして日本列島の広い地域が弥生時代へと入っていきました。水田が拡大することによって、縄文時代の終焉が始まったということです。先祖代々にわたって大切に育ててきた、縄文集落の植樹林を切り倒して、水田をつくっていったのです。縄文集落の周囲にはクリやクルミ、ドングリなどの堅果類の樹木が植樹されていました。それらの実は遺伝子が均一に揃っていることから、それらは自然林ではなく、人工林であることが分かっている。その堅果類の実を集落内の貯蔵穴に大量にため込んで、いつでも食べられるようにしていたのです。
そんな大切な、そしてご先祖さまたちが大事に守ってきた人工林を切り倒すことに対しては、大きな抵抗があったでしょう。そうした抵抗勢力は国内いたるところに存在していました。そうした抵抗を受けながらも水田を拡大していったのです。
その対立が日本書紀や古事記に記されています。日本書紀にはスサノオが姉の田を荒らしまわる姿が描かれている。春は用水路をこわしたり、溝をうめたり、畔をこわしたり、籾を重ね蒔きしたりしている。秋には馬を放って田を荒らしたり、領有権を主張したりする。古事記でも、スサノオはアマテラスが耕作する田の畔をこわしたり、田に水をひく溝をうめたりし、また新嘗祭の新穀を召しあがる神殿に糞をまき散らして穢している。徹底的なまでに水田稲作に対して攻撃を加えているのです。
こうして記紀が記しているように、弥生時代に入ると水田稲作を受け入れる人々と、拒絶する人々の間で争いが起こっていったのです。ただし、その争いは利己的な自己主張などではなく、それぞれの思いにはもっともな理由がありました。
アマテラスは水田稲作を通して穏やかな農耕社会を目指しました。それまでの荒々しい狩猟採集民であり海洋民族であった夷の暮らしから、平穏な農耕社会への転換をはかったのです。ただし、集落の周囲に大水田を切り拓くためには、先祖代々大切に育ててきた森林を大規模に伐採しなければなりません。それではご先祖さまに申し訳がないと考えたスサノオは水田つくりに強烈に反対したのです。
こうしてそれぞれの思いを強くもった人々は完全に対立関係になっていきました。スサノオを慕う人々は各地で水田集落を攻撃するようになっていった。それに対してアマテラスを慕う人々は、集落に壕をつくり、防御塀をめぐらせ、逆茂木を仕掛けて侵入者に備えた。そして各所に物見櫓をたてて警戒を怠らなかった。佐賀県神埼市と吉野ヶ里町に広がる吉野ヶ里遺跡などは、完全に戦争に備えた構造となっています。
こうして水田稲作の広がりとともに、日本各地に争いが広がっていった。弥生時代には各地に独立勢力が戦力を蓄えて割拠し、やがてクニが誕生していくことになる。そのクニには大きく2つの流れがあった。1つは水田稲作を基礎としたクニであり、その人々はやがて大和民族と呼ばれるようになっていく。
もう1つは、以前からの海洋民族であり続け、狩猟採集を基礎としたクニであり、その人々は夷であり続けた。弥生時代に入ってすぐのころは、夷の勢力が圧倒していたものの、弥生時代を通して徐々に劣勢となっていった。初めて聞く言葉だと思いますが、実は、弥生時代は日本国内における第一回目の戦国時代だったのです。
その群雄割拠していた弥生戦国時代を征して、畿内の大和朝廷が日本の再統一をはたしていった。とくに崇神天皇による四道将軍の派遣、景行天皇と日本武尊の遠征事業を通して大きくまとまっていったのです。その最後の大きな抵抗勢力だったのが邪馬台(やまと)国であり、日本書紀では山門県(やまとのあがた)と表記されている。山門県は現在の福岡県柳川市・みやま市の両市の大部分を占める広大な地域です。それを神功皇后が倒して日本の再統一がほぼ完成することになった。
ところが、それでもまだ北方には、完全には服従しない勢力が残っていたのです。それは東北夷であり、渡島(北海道)の夷だった。とくに東北夷の抵抗は激しく、東北が紛争の火種となって残っていく。その夷を征することを朝廷から託されたのが征夷大将軍であり、征夷大将軍を頂点とする幕府政権が日本の政治を司っていくことになる。
やがて東北夷も完全に幕府政治のなかに取り込まれていった。しかし、北海道の夷だけは、ずっと夷であり続けたのです。当初の蝦夷代官は津軽にいた安東氏でしたが、やがて蝦夷は北海道だけを指すようになる。そうして北海道の夷だけが蝦夷人と呼ばれるようになっていきます。
江戸時代末まで蝦夷人と呼ばれていた人々は、明治以降はアイヌという呼称で統一されていく。それまではアイノ、アインなどとも呼んでいましたが、アイヌという呼称で統一されました。
その人々は最後まで夷(蝦夷)であり続けたのです。だからこそ、アイヌには縄文習俗が引き継がれ、縄文の技術や道具が受け継がれているのです。言い換えると現代を生きる縄文人とも呼べそうです。










