『創業の原点に返れ』飯田建設と福岡・九州の土木の歩み(1)
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1951年6月に創業以来、福岡・九州での土木業を中心とした建設分野の事業を手がけ、65年にわたり地域のインフラ・街づくりに貢献してきた飯田建設(株)と同社グループ。2016年11月に地場総合建設業の雄、サンコーホールディングス(株)の傘下となり、単独での経営にピリオドを打ち、新たなスタートを切った。
同社は63年間の土木分野を中心に総合建設業として歴史を築き上げた。特に平成期の苦境下でのマネジメントとサンコーホールディングスとの統合をまとめ上げた、前代表取締役社長そして相談役であった吉原浩氏。同社の激動の最中に強靭な精神力と、使命感で舵取りを最後までやり遂げた吉原氏は、16年11月にすべての役職から退いた。吉原氏の回顧を交えながら、同社が今日まで作り上げてきた歴史と福岡・九州の土木を中心とした建設の流れを見ていく。不撓不屈の創業者
「創業者の飯田敏弘からたくさんのことを学びました。とくにご自身の姿勢である“国土再建に直接関連する事業を自分の生涯の事業とする”が不変でありました」と語る吉原氏。
同社創業者の飯田敏弘氏は、1916(大正5)年5月14日大分県の玖珠町で生まれ、日中戦争そして大戦に徴兵され、台北で終戦を迎えた。30歳で復員し、故郷の玖珠町に家族と戻り、自身の取り組むべき職業について熟考したという。その熟考した結果が、“国土建設”に直接関連する事業を興すことであった。それは20から30歳の間の青春時代を戦火のなかで戦ってきた飯田氏の経験と、当時、その戦火からの国の復興が急務であったことに起因している。
そして47年春、飯田氏は日東木工所を創業。事業内容は、雑材を買い入れて襖の骨組みを製作する仕事であった。また、当時電力不足の折、飯田代表は水車を動力源にした工場を設けた。戦後の復興期で住宅の建築が活発であり、飯田代表の仕事の需要は高まったが、生産が間に合わず、採算割れの状態となり経営に行き詰まった。創業から2年後に倒産し、債権者である親族の前で自身の無能無策を詫びて、返済の猶予を請うたという。無一文となり、さらには多額の負債を抱えたなか、「義理ある人々への負債のために生きることは、死ぬことより辛いことであると知らされたと言っておりました。その辛い経験があって、企業経営者として成長していく過程で貴重な教訓となったと飯田は述べておりました」(吉原氏)
セメント販売で再起
日東木工所の倒産後、飯田代表は再起を期して自身の妻と故郷の若者とともに、福岡市に転居。そして51年6月6日に福岡市西新町(現・早良区西新)1丁目33番地の知人の居住の軒先を間借りして、飯田商店を創業した。事業内容は、八幡高炉セメントの販売であった。なぜ、八幡高炉セメントであったのか。飯田代表の義兄が商社と関係していて、セメントの存在を知ったこと。さらに日東木工所が倒産した後、わずかな期間セメント業者である知人のもとで働いていた。飯田代表は、製造元の八幡製鐵所(現・新日鐡住金(株))に出向いて、高炉セメントの長短所をはじめ、理論と施工、品質特性について真剣に学んだという。
そして営業先にまったく相手にされない状態であった同セメントは、飯田代表の真摯な営業活動によって次第に品質特性が認められ、採用され始めた。53年には、建設省(現・国土交通省)九州地方建設局、福岡市当局から同セメントの採用が決まった。同年6月に発生した西日本大水害時には、筑後川の復旧工事に採用された。
「飯田は、どんな苦境下でも不撓不屈の精神、そして倒産時に禅僧の話のなかの脚下照顧の言葉を本尊として心に刻んで、働き続けたと述べておりました。それを生涯貫いておりました。これらの言葉が飯田の原動力でした」(吉原氏)
飯田代表の崇高な姿勢で、同社の事業が大きく羽ばたいていく。
(つづく)
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