2024年12月30日( 月 )

外国人が「日本語」を学ぶ理由~ビジネス日本語とは!(中)

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(公財)日本漢字能力検定協会 執行役員・BJT普及部長 高木純夫氏

中国語研修生としての台湾留学が私の転機です

 ――高木さんが現職に就かれた動機をお聞かせいただけますか。商社マンだったと聞いています。

 高木 私は国際都市神戸に生まれ、地元の神戸大学に進みました。小さい頃から海外で仕事をしたいという気持ちがあって、卒業後は迷うことなく商社(伊藤忠商事)に入社しました。1973年のことです。入社してしばらくは国内の仕事が中心でした。その後、75年に留学試験に合格、中国語研修生として台湾に行くことになりました。この台湾留学が私の人生における転機でした。この時に学んだ中国語が現在を含めて、その後の私の商社人生に陰に陽に大きな影響を与え、また宝ともなっています。

中国に一大プラントブームが起こっていました

 留学を終えて東京本社の化学プラント部に配属されました。当時の中国(鄧小平最高指導者時代)は近代国家建設のスローガンのもとに、一大プラントブームが起こっていました。石油化学、鉄鋼、発電所などで、日本企業の受注が相次いだのです。私は担当窓口としてその対応に当たることになります。当時、全世界の受注総額のうち、技術力の優秀さもその理由ですが、戦後賠償問題や円借款なども絡んで、日本だけでその大半の約30億ドルの受注があったのです。私は現地の第一線で通訳を含め、その交渉に立ち会いました。

 そうこうしているうちに「中国プラント・キャンセル問題」(あまりにも一度に多くのプラントを買い付けたため現金がなくなり、中国政府が経済調整をし始めた)が起こります。プラントが受注調整に入ってしまったため中国担当の私は仕事がなくなりました。

トルコ航空救援機でイスタンブールに脱出できた

 ちょうど時を同じくして、イランの首都テヘランで、中国と同じような一大プラントブームが起こります。79年にホメイニ師が亡命先のフランスから15年ぶりに帰国、同国の最高指導者になり政権が安定してきたのです(イラン革命)。そこで私は中国と同じインフラ・プラント(石油化学、鉄鋼、発電所など)の仕事でイランのテヘランに駐在することになりました。83年のことです。行った当初は、最高指導者ホメイニ師の下、安定した状態が続き、仕事は多忙を極めました。

 異変が起きたのは85年3月12日の未明のことです。漆黒の夜空に、凄まじい衝撃音、それを迎え撃つ高射砲の閃光。イラク軍によるテヘラン都市部への空爆でした。
 駐在員は数日後(日本企業の対応は各社バラバラだったと思います。私たちは攻撃を受けた後も数日間は出勤していました)、家族一同、子供の手を携え、着の身着のまま、約70㎞離れたテヘラン郊外の山岳地帯に避難しました。それからの話は、当時テレビでも取り上げられ、映画や小説にもなったのでご存知の読者の方も多いと思います。

 結果的に、イラク・フセイン大統領が「イラン上空を航行する全ての飛行機を攻撃対象とする!」と宣言した期限ギリギリの3月19日夕刻、我々はトルコ航空救援機で助けられ、イスタンブールに脱出することができました。(

 後日談としては、日本に帰国して約2~3週間後、私たちは単身でテヘランに戻りました。しかし、それからの空爆の方がこれまでよりずっと激しかったのを覚えています。間もなく、プラントビジネスは完全に停滞したので、私に帰国命令が出されました。

瀋陽事務所長兼ハルピン事務所長を務め帰国した

 帰国後しばらくすると、中国の経済調整が一段落して、プラント受注関連が再び忙しくなりました。そこで、私は87年に、北京事務所に機械部長として赴任することになります。
その後、北京に6年いて、93年に帰国、東京本社(中国化工プロジェクト室長~アジア・中国・大洋州室 室長代行)勤務の後、99年に台湾伊藤忠商事有限公司副総経理(台北)、2002年に、日本ガイシと伊藤忠商事が出資するNGK環保陶瓷有限公司に副総経理として出向(蘇州)しました。
 04年には胡錦濤政権が「東北振興政策」を標榜することになり、私は瀋陽事務所長兼ハルピン事務所長として瀋陽に赴任しました。11年に帰国して(公社)関西経済連合会に出向、13年から(公財)日本漢字能力検定協会に転身、現在に至っています。

(つづく)
【金木 亮憲】

(※)1890年、エルトゥールル号に乗ってオスマントルコ帝国の使節団が来日。明治天皇に拝謁した後帰国の途に就いたが、和歌山県串本町沖で同号は座礁し、581名が死亡した。この時、串本町大島の住人が必死の救助にあたり69名を救出、その後、救助された者は、日本海軍の巡洋艦でトルコまで丁重に送り届けられた。(「エルトゥールル号遭難事件」)
 トルコの教科書にも記載され、トルコ人のほとんどがこの事件を知っており、その“恩”に報いるという形で、トルコ航空救援機が飛んできた、と当時マスメディアで大きな話題となった。

<プロフィール>
高木 純夫(たかぎ・すみお)
1949年 神戸生まれ。1973年 神戸大学経営学部卒業後、伊藤忠商事に入社。75年中国語研修生として台湾に留学。87年北京事務所 機械部長、93年~95年 東京本社(中国化工プロジェクト室長~アジア・中国・大洋州室 室長代行)99年台湾伊藤忠商事有限公司 副総経理(台北)、2002年NGK環保陶瓷有限公司 副総経理(蘇州)、04年伊藤忠商事 瀋陽事務所長兼哈爾濱事務所長(瀋陽)、11年帰国して(公社)関西経済連合会国際部に出向。13年に(公財)日本漢字能力検定協会に転身して現在に至る。

 
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