中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(2)
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元ダイエー福岡3点事業専務取締役 大西 義威 氏
アジアの玄関としての福岡に関心を持っていた
――1988年9月に中内功氏は南海電鉄からプロ野球球団の南海ホークスを買収すると発表、本拠地を福岡に置くことを決めます。当時、ダイエーに買ってもらいたい球団は複数あったとも聞いています。別の球団を買っていたら、本拠地は福岡でなかった可能性もあったわけですか。
大西 私も候補が複数あったところまでは聞いています。しかし、本拠地をどこにするのか云々に関して詳細は存じ上げません。ただし、当時、往年の「西鉄ライオンズ」黄金時代の再現を福岡市民が強く望んでいたので、それに中内が応えようとしたことはたしかです。みんながみんな進出を歓迎してくれるところ、地元の熱意のあるところを選んだのだと思います。
さらにいえば、福岡には平安時代に設置された外交および海外交易の施設「鴻臚館」があります。中内はアジアの玄関口としての福岡に強く関心を持っていました。だからこそ、球団の本拠地を福岡に決めると同時に、福岡にダイエーの本業であるショッピングセンターを中心に球場やホテルを備えた新しい顔「ホークスタウン」をつくることを思い立ったわけです。流通科学大学の資料を見ていただくとよくわかるのですが、中内は「海外流通調査隊」などで、早い段階に、自ら積極的に、シルクロード、中国、東南アジアなどに出かけています。
俺が変えていかなければ、社会は変わらない
――アジアの玄関口としての街をつくるとは壮大な計画ですね。新神戸オリエンタルシティ構想もそうですが、スーパーの売上を拡大するというよりも、街そのものをつくってしまうところが、単なる経営者でなく、事業家・革命家といわれる由縁でしょうか。
大西 経営者という面とあるいはそれを上回って事業家・革命家であったことはたしかです。「俺が変えていかなければ社会は変わらない」「今の環境を変えながら、新しいものを提案していく」という気持ちを持っていたことは、近くにいて多々感じました。
よくいわれることですが、「POS(販売時点情報管理)」導入後の運用方法について、ダイエーとイトーヨーカドーは大きく違いました。POSとは物品販売の売上実績を単品単位で集計することを言います。コンビニエンスストアの場合5,000種類以上のアイテムがあります。最大の利点は、商品名価格、数量、日時などの販売実績情報を収集するため、「いつ・どの商品が・どんな価格で・いくつ売れたか」を経営者側が把握しやすく、売れ行き動向を観察できることです。
同じPOSの結果を見て、ダイエーは「どんな商品が売れているか」に注力するのに対し、イトーヨーカドーは「どんな製品が売れていないのか」に注力しました。経営的にも、消費者にとっても、どちらが最善であるかは意見が分かれるところです。しかし、その後のアクションは大きく違いました。ダイエーは売れ筋商品の一刻でも早い納品に走り、イトーヨーカドーは売れない商品のカットを行ったのです。売れ筋を追いかける方がより体力も、資金力も必要なことはたしかでした。あえて、困難な道を選び、大きな利益に挑戦するというのは、事業家・革命家の発想に近いような気がします。
地震2時間以内に、東京本社に対策本部を設置
もう1つ私が中内を事業家・革命家と感じた思い出は「阪神・淡路大震災」の素早い対応です。阪神・淡路大震災は1995年1月17日午前5時46分に起きました。その日は午前8時から定例の取締役会の日でした。開始すると、すぐに「神戸を巨大な地震が襲い、大変なことになっている。神戸はダイエーの発祥の地である。流通業のダイエーとして、物資を供給、全力で立て直さねばならない。暴動が起こらないようにしなければならない」と檄を飛ばしました。94年に起きたロサンゼルス地震では暴動が起きていたからです。
午前7時30分には、当時の役員を現地対策本部長に任命、対策本部を東京本社に設置していました。その後も、自衛隊の力など、あらゆる力を総動員、船もチャーターして、損得抜きで(当時のダイエーの被害総額は約500億円に上りました)被災地に物資を運びました。(つづく)
【金木 亮憲】※5月3日掲載の記事を再掲載しています
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