平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(2)
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お袋にビジネススクールに行くとウソをついて、当時新宿にあったバーテンダースクールへ通い出したのは、大学1年の秋だった。
カクテルなど呑んだこともなかったが、3カ月のコースが終わると、アイスピックを使って丸い氷をつくり、シェーキングも様になってきた。
卒業すると、新宿東口にあった直営の「コンパ」に派遣された。当時の客の注文は、連れの女をモノにしようと、“レディキラー”といわれるスクリュードライバーが多かった。
私好みの女がいると、男がトイレに行っている隙に男の酒にタバコを差し込み、破れないうちに抜きとるなんてことをやって遊んだ。悪酔いして、連れの女は呆れて帰ってしまう。
次に、渋谷のガード下にあったサテンでサンドイッチやパフェ、珈琲の入れ方を覚え、銀座のクラブホステスが始めた御徒町のスナックに移った。
私より8歳上で、島根で結婚したが姑との折り合いが悪く、子どもを置いて東京に出てきて、同郷の親戚、経営評論家K・Yの紹介で銀座に勤めていた。
しばらく経って女から、K・Yは客を紹介してやるなどと優(やさ)言葉を囁き、身寄り頼りのない彼女は、嫌々ながら男の妾になったと打ち明けられた。
餓鬼(ガキ)で世間知らずの私は男の非道に怒り、店の相談にも乗るようになった。その年の秋、TBS会館にあったフランス料理『シド』へと彼女を誘い、その晩、男と女の仲になった。私の初体験だった。街には森進一の『年上の女(ひと)』が流れていた。
これを知ったK・Yが怒り狂い、夜ごと彼女の駒込の家に来て玄関を叩き大声で吠えた。私は、男の自宅のある三鷹の家へ乗り込み、奥さんに一部始終を話して聞かせた。それからは家の方には来なくなったが、店に来ては女を怒鳴り、私を睨みつけて帰って行くことが何度かあった。
その後、彼女は横浜にマンションを買って移り住んだ。
K・Yは当時50代だったと思う。元共同通信記者で、中央公論や月刊現代などにもよく寄稿していた。まだ関係が険悪になる前は、出版社はオレが口をきけば入れるなどと嘯(うそぶ)き、中央公論増刊を無理やり押し付けられたことがあった。
店は順調だったが、K・Yが、以前貸し付けていたカネを返せと告訴したこともあり、彼女は再び銀座に出るようになった
クラブの名は「JUN(ジュン)」、ママは塚本純子といった。岸信介や田中角栄ら歴代首相や大企業の社長が常連で、入り口には黒服が立つ超のつく高級クラブだった。彼女はそこのナンバー1で、塚本ママには可愛がられていた。
夜、店を閉め、彼女の仕事が終わるまでクラブ近くのバーで待つのが日課だった。
時々、塚本ママが「呑んでいきなさいよ」と招いてくれた。高級な喫茶店という内装で、ホステスは彼女と同じ年上ばかり。早稲田の学生だとわかると珍しいのだろう、優しく接してくれた。
こんな「ヒモ暮らし」で、大学にはほとんど行かなかった。卒業できたのは長野から出てきた友人のおかげである。元上田高校野球部でショートだった中村良夫。彼がオレのすべての授業の代返をしてくれ、体育の実技も代わりにやってくれた。オレと違って抜群の身体能力があるから評価は一番上。だが、中村は「欠席」になるから評価は最下位。いいヤツだった。しばらく会ってないが元気でいるだろうか。
巷には日大闘争や東大紛争の嵐が吹き荒れていたが、この女と一緒になって場末のバーテン暮らしでもいいかなと思っていた。そこに親父から「読売新聞を受けろ」といわれた。当時、天皇といわれていたN専務から、「お前の息子は早稲田だそうだな。うちを受けさせろ」といわれたそうだ。
渋る私を専務に引き合わせ、専務から試験さえ合格すれば入社させるといわれた。
新聞記者など考えたこともなかった。その当時は“雑誌の時代”だった。平凡パンチ、週刊明星、少年マガジン、朝日ジャーナル、世界、中央公論、宝石。パンチのピンナップに心をときめかせ、マガジンの『巨人の星』『あしたのジョー』を貪り読んだ。
カッパブックスでミリオンセラーを次々に出していた光文社が輝いていた。読売を受けるなら、ついでに光文社も受けるか。
新聞は毎日読んでいた。彼女を待つ間、電話帳のような過去問を2回やっただけだったが、読売は受験者中36番だったと、親父が教えてくれた。「お前もできるじゃねぇか」と珍しく嬉しそうだった。
光文社は読売と試験日が重なり受けられなかったので、少年マガジンを出しているというだけで講談社、同じマンガを出している小学館を受けた。
小学館は試験で落ちた。連絡が来ないので、こちらから電話をした。落ちたといわれカッとして、「講談社より優しいのに落ちるわけがない。もう一度調べてくれ」と食い下がり担当者を辟易とさせた。
読売は地方に行かされるから嫌だな。そう思っていたところに読売から「不合格」という通知が来たのだ。理由は、健康診断で「慢性腎炎」と診断されたというのである。
やはり2度の結核で体に変調をきたしているのだろうか。しかし、こんなことで落されるのは理不尽だと気持ちを奮い立たせた。私は逆境には強い(ちなみに、以来半世紀を過ぎたが腎臓機能には何の問題もない)。
講談社の健康診断の日、一計を案じた。9歳下の弟に千円札を握らせ、「この薬瓶のなかにお前のおしっこを入れてくれ」と頼んだ。
採尿のためにトイレに行き、大便用に入って紙コップに弟のおしっこを流し込んだ。
こうして私の講談社の編集者人生が始まったのである。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
□プレジデント・オンライン
□『エルネオス』メディアを考える旅
□『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
□日刊サイゾー「元木昌彦の『週刊誌スクープ大賞』」関連キーワード
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