平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(4)
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昭和が終わった日のことはよく覚えている。1月7日、土曜日。私は地下鉄東西線「落合」駅から中山競馬場へ行こうとしていた。駅へ降りる前に念のためラジオをつけた。君が代が流れてきた。競馬は中止になった。
昭和天皇は前年の9月19日に吐血して以後、長い闘病が続いていた。日本中が派手な行事やイベントなどを自粛し、新聞は天皇の崩御の予定稿を書いて寝かせておいた。
即日、皇太子が即位し、小渕恵三官房長官(当時)が新元号「平成」を発表した。
私は44歳。再び月刊現代に戻り次長になっていた。銀座のクラブの女とは、私の心変わりから別れ、33歳で別の女と結婚した。
35歳のときだった。ジャニー喜多川の性癖を、週刊誌として初めて書いたことで大騒ぎになった。ジャニーズ側が、今後講談社の雑誌にはうちのタレントを一切出さないといい出したのだ。
困った社は、私を婦人倶楽部に異動させることでジャニーズ側と手打ちをした。そこには2年いて月刊へ戻された。
北朝鮮から総連を通じて、招待するという誘いが来たのは1984年の暮れだった。条件は、1カ月一人で来ること、このことは一切他言無用ということだった。後でわかったが、こういう条件で日本人を呼ぶのは、小田実(作家)以来初めてだった。
親しくしていた中曽根首相(当時)の秘書と河野洋平(当時新自由クラブ代表)に北へ行くことを伝え、もし、1カ月以上経って戻らなかったら北に問い合わせてくれと頼んだ。もちろん国交のない国だから、それでどうなるものではないだろうが。
ソ連のモスクワ経由で平壌へ入ったのは翌年の5月の始めだった。招待所に通訳とクルマと運転手、賄の女性がついた。
行く前、親しくしていた韓国政府の要人から、夜、壁に向かって「女が欲しい」というと、次の夜、女性が部屋に来るといわれた。何度かやってみたが、女は現れなかった。
犬の刺身が出た。北朝鮮では珍味だそうだ。綺麗なピンク色で、一口食べるだけで顔に脂が浮き出た。洗面器のような器に入った平壌冷麺。38度線へ行く前に、河原で弁当を使い酒を呑みながら北と日本の歌を唄い合った。社会党訪中団と隔離され一人だけ貴賓室で観たオペラなど、楽しい思い出である。
北のエリートたちは、必ず南鮮(韓国)と統一すると熱く語った。行く少し前に起きたラングーン事件(韓国の要人たちが爆殺された)に北は関与していないと主張した。
平成元年に話を戻そう。この年は激動の年だった。2月には昭和の歌姫・美空ひばりが亡くなった。私は、ノンフィクション作家の本田靖春に、『戦後―美空ひばりとその時代』を現代に連載してもらった。取材で初めて会ったとき、すでに骨粗しょう症のためだろう、痛そうに2階から下りてきた姿が忘れられない。
青葉台の自宅、新宿コマ劇場の楽屋、テレビの収録に付き合い、長時間話を聞いた。母親は既に亡くなっていた。べらんめぇの気風のいい姉御肌だった。私は立ち会えなかったが、当時、新宿ゴールデン街に美空がふらりと現れ、流しのギターを伴奏に、何曲も歌ったことが大きな話題になった。
子どもの頃、巡業中のバスが横転して、美空も大きなケガをした。それを治さずに巡業を続けたことで、腰に激しい痛みが出ていた。九州の病院に入院してから戻り、都内のホテルで再起を祝うコンサートが開かれ、私も招かれた。そこで言葉を交わしたのが最後だった。
2月には、リクルート創業者の江副浩正が、未公開株を政治家に配った「リクルート事件」で逮捕される。リクルートの銀座8丁目の本社ビルには、江副の発案で酒が呑めるバーがあった。
同世代のリクルートの人間と会うと、そこへ連れていってくれた。江副がいると声をかけ、気軽に席へきて話し込んだ。ある時、私のやった記事でリクルートから抗議が来た。受付からリクルートの方が来ていますといわれ、名前を聞いてくれというと、「江副といってます」。本人が秘書も連れずに来たのだ。
3月には、女子高生が少年たちに監禁・暴行され、殺されてコンクリート詰めにされた事件が起こる。当時、週刊文春の編集長だった花田紀凱は、これほどの悪質な事件を起こした人間を匿名にするのはおかしいと、実名を掲載した。
女子高生が美人だったため、彼女の写真を多くの新聞、雑誌が掲載した。彼女の父親が、「被害者の人権を無視している」と抗議した。
4月に、朝日新聞が沖縄のサンゴが心無い観光客によって傷つけられていると、写真と記事を掲載した。だが、後に、カメラマンが故意に傷つけていたことが明らかになり、朝日の社長は辞任する。
当時、朝日の社長を長く務めた広岡知男の鷺宮の家によく顔を出していた。広岡は、この件に対して私にこういった。
「社長は今辞めることはない。こうしたことが2度と起きないように体制をつくってから辞めるべきだ」
沖縄の人間からの抗議で事件が発覚したことについて、
「昔は、朝日にケンカを売ろうなんて人間はいなかったものだ。政治家だって朝日とケンカしたら勝てないからだ。今は朝日の力が落ちたから、こういうことが起きる」
誇り高き文化人というのだろうか。『朝日文化人―この日本をどうしようというのか』がカッパ・ブックスから出たのは1967年だった。
6月4日に「天安門事件」が起きる。その少し前に私は中国・天津にいた。天安門広場で若者たちがハンガーストライキをやっていると報じられていた。天津からの帰り、北京に寄り、天安門広場へ行った。空は抜けるほど青く夏のような暑さの下、広場は若者たちで埋め尽くされていた。
思っていたような緊張感はなく、アイスキャンデーを舐めながら歩くカップルの姿が目立った。だが、やぐらを組んだ上にあるカメラだけが、ハンガーストライキをしている若者たちを撮り続けていた。
やぐらの下に行って名札を見てみた。CNNとあった。この1台のカメラが、世界中に中国政府がやった蛮行の映像を流し続け、一躍CNNの名前が広がったのだ。
事件は、私が北京を離れた翌日に起きた。この事件を取材するため、イギリス領(当時)だった香港へ行き、九龍城砦で、中国から逃げて来た若者たちにインタビューした。
ここは複雑に入り組んだ迷路で、このスラム街には当時、3万人以上が住んでいたといわれる。
案内人なしで入れば、出ては来られない。昼日中でも強盗、殺人が日常茶飯で行われていた。足の震えるほど魅力的な場所だったが、今はない。
永田町では、竹下政権が消費税を導入して支持率を落とし、総辞職する。替わって宇野宗佑が首相になるが、サンデー毎日(鳥越俊太郎編集長)のスクープで、わずか69日でその座を追われることになる。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
□プレジデント・オンライン
□『エルネオス』メディアを考える旅
□『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
□日刊サイゾー「元木昌彦の『週刊誌スクープ大賞』」【平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録】の記事一覧
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(3)(2019年05月21日)
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(2)(2019年05月14日)
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(1)(2019年05月07日)関連キーワード
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