平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(5)
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中西ミツ子は私にこういった。
「今の心境ですか? 私の人生だから、やらないで後悔するよりも、やって後悔したかった。私も必死だったし、宇野さんも必死だった。計算なんかできなかった。結果は、私にとってもプラスにならなかったけど、あの時やった、そのことに意味があると思っています」
平成元年(1989年)4月、リクルート事件への関与と消費税導入によって支持率が急落した竹下登総理が辞任した。後継選びは難航したが、クリーンなイメージがあった宇野宗佑が第75代内閣総理大臣に選出された。
だが、就任3日後に発売されたサンデー毎日が、神楽坂の芸者で宇野の愛人だった中西ミツ子の告白を載せたのである。
中西は「宇野が三本指を握って、俺の愛人になれといった」と暴露して、「三本指」が流行語にまでなった。発売当初、大手マスコミはこのスクープを無視した。火をつけたのは、立花隆が文藝春秋で「田中角栄研究」を書いたときと同じように、ワシントン・ポスト紙など外国メディアだった。
この大スキャンダルとリクルート事件などが大きく影響して、7月の参議院選で自民党は改選議席の69議席を大きく下回る36議席と惨敗し、結党以来初の過半数割れとなった。宇野は退陣を表明する。就任期間わずか69日という短命内閣だった。
私が中西と会ったのは、告発騒動が一段落した頃、TBSのディレクター吉永春子の紹介だった。以来、長きにわたって彼女と付き合うことになる。
生命保険会社にいる時に知り合った大物デザイナーとの結婚と離婚。子どもの親権を奪い返すために神楽坂の料亭に面接に行き、芸者になった。
宇野が彼女の手の真ん中の三本指をぎゅっと握り、「これで俺の女になれ」といった。最初の夜は、屈辱的で、「正直いって、暗い天井を見て、寝られなかった」。一方的に宇野のほうから関係を切ると通告され、手切れ金はなく、着物代など数百万円の借金を抱えてしまった。仕方なく芸者を辞めてエクステリア事務所で働いていたが生活は苦しかった。
そんな5月のある日、疲れ果てた中西がテレビをつけると、総理に就任した宇野が夫人と一緒ににこやかに笑っていた。その瞬間、底知れぬ怒りが湧いてきた。
翌日、宇野の議員会館の部屋に電話をした。宇野本人が出てきて、迷惑そうに「電話をかけてもらっては困る」といった。
「あの時、宇野さんが、『ありがとう。何かあったらいってきてくれ』っていってくれてたら、告発しなかったわよ。こっちは生活が苦しくて困ってるのに、人の痛みがわからない。こんな人が一国のトップになるなんて、許せないと思った」(中西)
初めに朝日新聞に電話をする。週刊朝日編集部に回されるが、電話に出た人間は彼女の話を真剣に聞いてくれなかった。
毎日新聞に電話すると政治部へ回された。彼女が話し終えると記者が、「わかった。話を聞かせてほしい」といった。
後年、中西は宇野について私にこういった。
「宇野さんは辞める必要はなかったんです。『やっちゃいました、参勤交代のように東京に来ていて、1人で寂しかったから』といえばよかった。正直にいうことによって、その政治家の意気込みが表れるんです。(中略)花柳界で旦那になるということはステータスです。それなのに、宇野さんは気っ風が悪くて、別れ方も粋じゃなかった」
そしてこう付け加えた。
「ここまでしゃべるのに20年以上かかった。告発しなかったら別の人生があったのに」
当時、身の危険を感じていたため、世間に顔を知られれば安全かもしれないとテレビに出た。だが、それが裏目に出た。
街を歩いても、お茶を飲んでいても世間の好奇な目が注がれ、マスコミも「あることないこと書いて、まるで犯罪者扱いでした」(中西)
ツテを頼って鹿児島の池口恵観法主の最福寺に身を潜めるが、マスコミは容赦なく彼女を追いかけてきた。その後、宇野の選挙区と同じ滋賀県の円満寺で尼僧になる。
現職の総理を告発したため、いわれなき誹りを受け、住むところも場所も次々に変え、今度こそはと所帯を持った6歳年下の男との生活も破綻した。
「私は本当は優しい女。エプロンが一番似合う女だと思っています」
何か思いが募ると電話をしてきた。何枚も書き連ねてファックスしてきた。
そのなかに、鳥越(俊太郎) が許せないという内容のものがいくつもあった。月刊Asahi(1989年10月号)で鳥越が、中西のインタビューのゲラをカミさんに見せたとき、「ゲラを読むなり女房は『この女は卑怯だ』」といったと話していた。
「私が情報提供したから鳴かず飛ばずの週刊誌が売れて、時の人になって、テレビに移っていったんじゃないですか。女房とのことは、家の中でしゃべっていればいいんですよ。私も宇野さんも大きな代償を払ったんです。鳥越さんは何も代償を払ってないじゃないですか。今でも、あの人がテレビに出てくると、一番辛かった時期を思い出してしまいます。女1人、矢面に立っていたのに、後ろから蹴っ飛ばされるとは思いませんでした。
(中略)自分の女房の言葉を持ち出して、自分を浮かび上がらせようという態度に我慢がなりませんでした。弁護してもらおうなんて、甘い考えはありませんでしたが、黙っていることぐらいできたはずです」
告発した彼女は、尼寺にいる時に覚えたマッサージの仕事で細々と暮らしていた。
私が退職したとき、彼女から「何もお祝いできないけど、オフィスに行ってマッサージをしてあげましょうか」という申し出があった。マッサージをされているとき、妙な気持ちになったら困ると思い、気持ちだけ頂いた。しばらく音信がないが、どうしているのだろう。
この年の8月には秋篠宮(礼宮文仁親王)と川嶋紀子さんの婚約が発表された。私は、紀子さんの友人の父親から当時の状況を詳しく聞いていた。
秋篠宮からプロポーズされたとき、紀子さんがその友人に電話をしてきて、「やったー!」と電話口で声を上げていたそうだ。
秋篠宮に狙いを定めて彼女がアタックしたとまではいわないが、入学当初から、秋篠宮に強い関心を寄せていたようである。
私は当時44歳。普通なら編集長の声がかかってもおかしくない年齢である。だが、私がほとんど会社にいないことや、他社の人間に「編集長なんて今すぐにでもできる」と公言していたことが伝わったのだろう、当時の編集長から「お前を絶対に編集長にはしない」と凄まれたりと、編集長への展望はなかなか見えてこなかった。
その頃、友人の猪坂豊一と一緒に「マスコミ情報研究会」(通称マス研)なるものを立ち上げた。夜な夜な、他社の編集者やノンフィクション・ライターなどと、西麻布にある博多料理の店でどんちゃん騒ぎをしていた。
多いときは100人を超える人間が集まり、1階2階を貸し切り状態にしても人が溢れたことも何度かあった。
噂を聞いて、政治家や歌手なども来ていた。『高校三年生』でスターになった舟木一夫もそのひとりだった。
たしか、彼が千駄ヶ谷の旅館で自殺未遂をした後だったと記憶している。そんなこともあって人気が落ちていたこともあったのだろう、ひっそりと来て片隅で呑んでいた。ある時、舟木から、新曲を出したのだが、ここで歌わせてもらっていいかと聞いてきた。
CDとラジカセを持参していた。いいよと引き受けた。できたら『高校三年生』も歌ってくれないかと頼んだが、それはできないと断られた。
やはり落ち目でも、こういうところでヒット曲を歌うのは、彼のプライドが許さなかったのだろう。1階の隅で歌い始めたが、酔客たちは聞いていないどころか、彼が舟木だということにも気付いていなかったようだ。
もう一人は『愛の奇跡』『愛は傷つきやすく』のヒット曲で知られていたヒデとロザンナのヒデこと出門英だった。
カッコいい男だった。ヒデもラジカセを持参して新曲を歌ってくれた。いい友達になれそうな奴だったが、翌年の6月に急逝してしまった。
私がフライデーの編集長に就任する少し前のことだった。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
□プレジデント・オンライン
□『エルネオス』メディアを考える旅
□『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
□日刊サイゾー「元木昌彦の『週刊誌スクープ大賞』」【平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録】の記事一覧
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(4)(2019年05月29日)
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(3)(2019年05月21日)
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(2)(2019年05月14日)
・平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(1)(2019年05月07日)関連キーワード
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