2024年11月22日( 金 )

「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(9)

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 幸福の科学事件に触れる前に、ビートたけしの率いる「たけし軍団」がフライデー編集部に乗り込んできた事件の「後日談」について書いておきたい。

 この事件をきっかけに、写真週刊誌の取材手法に批判が集まり、部数が激減したことは前に書いた。野間惟道社長(当時)がこう表明した。

 「写真週刊誌の現在のあり方に対する批判意見に率直に耳を傾ける心の広さが必要である」

 フライデーのたけし事件後遺症は深刻だった。たけしのほうは事件後しばらくして、テレビや映画で活動を再開したが、フライデー編集部にとってたけしは「タブー化」していった。

 私が編集長に就任した時、「雑誌にタブーがあってはならない」と宣言した。だが、事件の時、その場にいた先輩・同僚からは、「あいつだけは触るのはやめたほうが良い」という声が上がった。

 そうこうしているうちに、事件のきっかけになったたけしの19歳年下の愛人に「子どもがいる。3人一緒の写真を撮ったと」いう報告が、張り込み班から上がってきた。

 だが、彼らも、これを掲載できるのか不安そうだった。

 私は、これをもって「たけし事件」に区切りをつける、そう考えた。社長を含めた社の幹部たちに、写真を撮った詳しい経緯や事実関係、これを掲載した後のたけし側のリアクションについて私の考えを伝え、許可してくれるよう説得して歩いた。

 1991(平成3)年2月25日号に「ビートたけしが守り続ける『もう1つの家庭』」というタイトルで掲載した。もちろん、子どもと女性の顔はわからないようにした。たけしにも取材したが、「自分は知らない」というだけだった。

 これを機に、私はたけしと和解をしたいと考えた。フライデーを離れ週刊現代編集長の頃だったと記憶している。大橋巨泉から、「オレの還暦の祝いをやるから来てくれ」という連絡があった。当日、六本木のクラブへ行くと、巨泉から、「たけしが来ている。紹介するから」と言われた。

 酒を呑みながら話をした。「いろいろあったけど、和解しようじゃないか」と言うと、「オレのほうはいいですよ」。後日連絡することで別れたが、この約束は残念ながら履行されなかった。たけしがバイクに乗って事故を起こしてしまったからであった。

 さて、幸福の科学事件にいこう。1991(平成3)年9月2日、私が講談社社屋に入ろうとすると、敷地に大勢の人が集まっていて、何やら大声で騒いでいる。一瞬何かと思ったが、すぐに思い当たった。

 私を見つけた総務の人間が私のところに飛んでくる。「編集長、幸福の科学の信者たちが、あなたを出せと抗議に来ています」と囁く。

 やはりそうだった。フライデーの夏の合併号(8/23・30号)から始めた幸福の科学についての連載によって、大川隆法創始者を誹謗されたと信者たちが怒り、集まってきたのだった。

 当時、オウム真理教や幸福の科学などの新興宗教が話題を集めていた。昭和の終わりに、ヨーガを学ぶサークルとして始まったオウムだったが、次第に過激化していった。1989(平成元)年には衆議院選に候補者を立てた。同年11月には教団に批判的な坂本堤弁護士一家を誘拐・殺害したと噂されていた(後日、事実と判明する)。

 過激なオウムに比べ幸福の科学のほうは、東大出の大川を中心に緩やかなサークル活動グループのように思っていた。だが、会員が増えてくるにしたがって、他からの批判は許さないという独善性を強めてきたように、私には思えた。

 この年7月15日に東京ドームで行われた「御誕生祭」では、5万人の信者を前に大川隆法は、

 「われは人間ではない。神である。エル・カンターレである」

 と言った。エル・カンターレとは、大川の著書によれば、ゴーダマ・ブッダ、仏教では釈迦のことである。自らを神といってはばからない大川という人間に、雑誌屋が興味をもたないはずはない。

 フリー・ジャーナリストを筆者に立てて、大川の大学、サラリーマン時代から調べ始め、合併号から連載を開始。発売されるやいなや、教団と信者たちは、このような過剰と思える行動に出たのだ。

 敷地内にあふれんばかりの信者たちを眺めながら、当時できたばかりの広報の室長Sに、「私が出ていって話をしますよ」といった。だがSから、「おまえはすぐ喧嘩するから、今は出ないでくれ」と言われてしまった。

 仕方なく編集部へ顔を出すと、電話が鳴り続けている。FAXが信者たちからの抗議文を途切れることなく吐き出している。しかも、フライデーだけではなく、社全体におよんでいて、全社的に仕事がまったくできない状態であることを知らされた。

 電話は使えず、FAXの電源を切っても、入れれば同じ状態になる。後日、その日の社全体のFAX用紙を集めて計ってみると2トンにもなった。

 友人のアルファ通信・豊田勝則社長(当時)に連絡し、新しい電話とFAXをできるだけ多く設置してくれるよう頼んだ。彼は社員を動員して1~2時間で工事を終えてくれた。教団側は、即日、私と筆者を東京地裁に名誉棄損で訴えた。講談社側も、悪質な言論・業務妨害だと教団を訴え、双方の訴訟は十数件にもなり、最高裁まで10年近くかかることになる。

 この事件で嬉しいことがあった。深夜から朝方になっても止むことのない抗議電話に、フライデーから早く出たいといっていた部員を含めた全員が、電話で信者たちの抗議を受けて言い返し、激しくやり合っているのだ。それも喜々として。この時ほど、編集部の一体感を感じたことは、この後にもない。

 外敵は恐れることはない。だが、困ったのは、社内から「たけし事件の二の舞ではないか」という声が上がったことである。また編集部側の取材に落ち度があって、相手を怒らせたのではないかというのだ。

 放っておくと、こうした無責任な声が社内に広がり、再びフライデーを休刊せよという動きにつながりかねない。記憶はあいまいだが、広報か総務の人間に、私が事情を説明するから部課長以上を講堂に集めてくれと伝えた。

 翌日の昼頃だったと思うが、登壇して、この間の事情を説明した。今回は、取材方法にも記事の内容にも、みなさんが心配する点はまったくない。そう言った後、こう続けた。

 「実は、たけし事件の後、私もフライデーを休刊せよと主張した1人だった。しかし、自分がフライデーをやってみてわかったことがある。社内からの心ない批判がどれほど辛いものかということだ。当時の編集長や編集部員たちは、どんなに辛い思いをしただろうかと考えた。今回は、あの時のような取材の誤りはまったくない。この件は我々で必ず解決するから、社内から批判することだけはやめてほしい」

 先輩たちから、「お前の言葉には心がこもっていて、よかった」といわれた。これを機に、社内の流れは我々に向いた。

 幸福の科学側は、週に何回か、池袋から社屋の前を通って江戸川橋までデモをやり出した。その先頭には、歌手の小川知子や直木賞作家の景山民夫が立った。

 ワイドショーはこれに飛びつき、デモにレポーターたちを張り付け、彼らが「フライデーを廃刊せよ」「元木は編集長を辞任しろ」と叫ぶシュプレヒコールの光景を流し続けた。我々は、屋上から、それにこたえて手を振った。

 田原総一朗から「朝まで生テレビ」に出演してくれという依頼があった。他からもあったが、みな断った。意外なことに、「朝生」に出て、幸福の科学を批判したのはオウムの麻原彰晃であった。

 後に、オウム元幹部の井上嘉浩死刑囚が文藝春秋に手記を寄せ、大川隆法の殺害計画があったことを明かしている。麻原は95年1月、横浜アリーナで行われる大川の講演会を狙ってボツリヌストキシンという生物兵器を撒くよう指示を出したという。この計画は失敗に終わったが、麻原は当時から、大川に対して激しい対抗心をもっていたようだ。

 当時、講談社に近い日本女子大の島田裕巳助教授が、幸福の科学批判の先頭に立ってくれた。幸福の科学は当時、賃貸料月2,000万円ともいわれた紀尾井町のマンションに本部を構えていた。近くに編集部のある週刊文春が、フライデーと教団との確執を面白おかしく報じた。

 よくも悪くも、フライデーという雑誌は話題になってなんぼ。いくつもの地雷を踏みながらも、順調に部数は推移していった。だが、翌年夏の合併号で、この事件を上回る、講談社を揺るがす暴行事件が起きるとは、その時は考えもしなかった。

(文中敬称略=続く)

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

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