「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(11)
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7月9日、ジャニーズ王国を一代で築いたジャニー喜多川が亡くなった。享年87。翌日のスポーツ紙は全紙、一面全部を使って賛辞を贈り、彼の死を悼んだ。
同じ日の朝日新聞も一面で彼の死を大きく報じ、第二社会面でもジャニー喜多川の「評伝」を掲載した。その最後にこう書いている。
「1999年には所属タレントへのセクハラを『週刊文春』で報じられた。文春側を名誉毀損(きそん)で訴えた裁判では、損害賠償として計120万円の支払いを命じる判決が確定したが、セクハラについての記事の重要部分は真実と認定された」
前にも触れたが、彼が少年たちに性的虐待をしているのではないかという疑惑を、一般週刊誌で初めて報じたのは、週刊現代にいた私だった。
昭和56年(1981年)の4月30日号だから、文春が報じる18年前である。記事が出た後、ジャニーズ事務所は講談社に対して、「今後、一切、うちのタレントは出さない」と宣告してきた。
講談社には、ジャニーズ所属のアイドルを使いたい少年少女向けの雑誌が多かったという社内事情もあったのだろうが、私を突然、婦人雑誌へ異動させ、ジャニーズ側に屈服した。
大出版社が、目先の利益を優先するために社員の人権を蔑ろにしたのである。出版社にもいくばくかの守るべきジャーナリズムがあるはずだが、自らそれを放棄してしまった。
こんな会社辞めてやる!30代半ばで血の気が多かった私は、結婚したばかりだということも忘れて、そう腹を決めた。
当時、親しくしてもらっていた「劇団四季」の浅利慶太に会って、あなたの秘書にしてくれないかと頼み込んだ。
私の話を聞いた浅利は、「わかった」といってくれた。ホッとした私に彼は、「だが、君は婦人倶楽部がどういうところか知らないだろう。半年我慢してみたまえ。それでも嫌だというなら、僕が面倒を見る」といった。
この言葉がなければ、私は講談社を辞めていただろう。結局2年間、婦人倶楽部編集部にいた。仕事はほとんどしなかったが、居心地のいいところだった。
その後、月刊現代に移り、週刊現代に編集長として戻ったのは11年後のことだった。
話をフライデー時代に戻そう。編集長就任以来、順調に部数は伸びていたが、それをさらに押し上げたのが、スクープグラビアであった。
手元に平成3年11月29日号のフライデーがある。表紙は宮沢りえ。彼女のファースト写真集『Santa Fe』を全面広告した朝日新聞が大きな話題になり、写真集は爆発的に売れた。
今見ても、彼女の美しさは少しも色褪せていない。この号は「創刊7周年特大号」と銘打っている。
宮沢りえについては、だいぶ後になるが、こんな話がある。張り込み班が、高名な某カメラマンの奥さんが、テレビ局の人間と会っている写真を撮ってきた。
大きなスクープにはならないと思ったが、私も知っている人間なので、そのカメラマンに写真を持って会いに行った。
だが、そのカメラマンは、掲載するのは絶対やめてくれといってきかない。そこで交換条件を出した。宮沢りえのグラビア特集をしたいと考えている。もし、あなたにそれができるのならば、この写真はボツにしようと持ちかけたのだ。
後日、りえ側がOKになったと連絡があった。当時、宮沢りえほど売れる女優はいなかったと思う。彼女が貴乃花と婚約したのは、その話の少し後の平成4年(1992年)11月であった。
私が、「ヘア・ヌード」というジャパングリッシュを生み出すのは、週刊現代に行ってからだが、有名女優のヌードは男性誌には欠かせないものだった。
だが、ちょっとでもヘアの写っているグラビアは掲載できなかった。もし出せば、桜田門(警視庁)に呼ばれ、さんざん怒鳴られた挙句に始末書を書かされるか、出回っている雑誌をすべて回収しろといわれる。
私が入社した当時は、外国のポルノの翻訳を掲載する時も、これはワイセツ表現に当たらないか、神経をすり減らしながらチェックしたものだった。
イギリスの作家D・H・ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳を巡る裁判を出すまでもなく、月刊誌『面白半分』に掲載した、永井荷風作とされる『四畳半襖の下張』がわいせつ文書だとして、野坂昭如編集長らが訴えられたのは1972年のことである。
ここでも最高裁は、わいせつの定義は、「読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否か」だという曖昧な理由で、野坂以下を有罪にしたのである。
私には、日本でわいせつ表現の自由が認められる日が来るとは、到底考えられなかった。
だが、時代は少しずつだが動いてきたのである。女優の樋口可南子が平成3年(1991年)1月に発表した写真集『water fruit』(撮影・篠山紀信)は、ヘアも出ている、当時としては超過激なものだった。
全編ヘアが写っている映画『美しき諍い女』(ジャック・リヴェット監督)が、映倫の審査を通ったのもこの頃である。
わいせつ基準は何ら変わっていないが、世界の潮流に、取り締まる方が抗しきれなくなってきたのだと感じた。わいせつ表現の自由を勝ち取るために闘い、敗れてきた先輩編集者たちのためにも、この流れをさらに加速させていこう、それが私のやるべきことだと思い定めた。
私は勝負に出た。過激なパフォーマンスで人気のマドンナが出す写真集が話題になっていた。タイトルもズバリ『SEX』。
エージェントは写真集を出さないかといってきた。アメリカ版と同じ紙を使って印刷もまったく同じにやるという条件で、しめて1億円でどうかという話だった。
食指が動いた。熟考した後、掲載権(1回だけ)を1,000万円で買うことにした。もちろんヘアがハッキリ出ているカットもある。外国女性だからといって桜田門は許してはくれない。だが、賭けに出た。フライデー10月23日号の表紙に、マドンナとSEXの文字を大きく出した。桜田門は沈黙したまま、完売だった。賭けに勝ったのである。
さらに講談社初のヘア・ヌード写真集を出そうと用意していた。女優・荻野目慶子の『SURRENDER』。言葉の意味は「委ねる・明け渡す」。荻野目の所属するプロダクションから、やらないかといってきたのだ。
荻野目には映画監督の愛人がいたが、2年前に彼が荻野目のマンションの部屋で自殺した。
メディアはセンセーショナルに取り上げ、彼女を「魔性の女」と呼んだ。その映画監督が密かに撮っていたプライベートな荻野目の写真がある。それを写真集にしないかというのである。
全ての写真を見て、荻野目とも会って話した。彼女は、死んだ愛人が撮った写真だとはいわなかった。だが、写真が雄弁に語っていると、私は思った。
問題は、写真家の名前を出してもらっては困るということだった。考えた末、謎の絵師として知られる「写楽」というのを使おうと決めた。映画監督の奥さんにも販売収益を受け取る権利があるが、連絡したが、いらないといわれてしまった。
そこで、顧問弁護士からの助言で、収益の内から彼女の取り分を積み立てておくことにした。
後はどう話題作りをするかだ。旧知の週刊文春・花田紀凱編集長のところへ、取り上げてくれるよう頼みに行った。写真集の経緯を話すと、それは面白い、うちで取り上げようといってくれた。
初版10万部で、定価は2,800円。来週の月曜日に発売という前の週の水曜日だったと記憶しているが、思わぬ“事件”が起きた。
その朝役員会が開かれ、社長が、「カメラマンの名前も出ていない写真集を、講談社から出すわけにはいかない」といい出したというのである。
鈴木役員が私のところへきて、「そういうわけだから、あの写真集は出せない」と平然というではないか。「冗談じゃない」と私は怒鳴った。「出版していいという会社の了解も取っているのに、社長のひと言でひっくり返すなんて、いったいこの会社はどうなっているんだ」。怒りは収まらなかったが、より深刻なのは、写真集を作るために投じたおカネが回収できなくなれば、せっかく順調にきたフライデーの足を引っ張ることになる。
そうこうしている間に、流れが急変したのだ。私は知らなかったのだが、販売か広告の役員だと思うが、文春の早刷りを手に入れたのである。そこには大きく、「荻野目慶子 自殺した愛人が撮ったヘア写真をフライデーが公開!」(9月10日号)と出ていた。
再び役員会が招集された。そこで、ここで出版を取りやめると、その事が大きな話題になってしまう。ここは粛々と出したほうがいいのではないかという声が、大勢を占めたというのである。
文春様様である。かくして発売と同時に写真集は飛ぶように売れ、増刷を重ね、20万部を超すベストセラーになったのである。
当時のフライデーは230円。値の張る写真集が売れれば、こんなおいしい話はなかった。
次は女優・石田えりを世界的な写真家であるヘルムート・ニュートンに撮影してもらう写真集を企画した。石田とニュートンへの謝礼、現地で撮影してもらうための旅行代、滞在費などを含めて、1億円程かかったと記憶している。
定価は3,800円。こちらは大のつくベストセラーになった。そうしてようやく念願の週刊現代編集長の声がかかるのである。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
□プレジデント・オンライン
□『エルネオス』メディアを考える旅
□『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
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