「平成挽歌―いち編集者の懺悔録」(12)
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汗が体中から噴き出してくる。冬近い晩秋の街を走るタクシーの中は涼しいはずなのに、私の頭も顔も背中も、汗水漬くである。
おまけに、講談社が近付くにつれて動悸が激しくなる。田中角栄邸を過ぎて横道に入り、大塚警察のところを曲がれば社だが、私は運転手に、「申し訳ないが、もうしばらく走ってもらえないか」と告げる。
タクシーは音羽通りを左折して、再び、目白駅方面に走り出した。
平成4年(1992年)11月に入ってすぐに野間佐和子社長から呼ばれた。重厚なテーブルと座り心地のいい椅子のある応接室の向こうに野間社長と室長が座っていた。
父親の野間省一社長は、眼光鋭い偉丈夫だったが、佐和子社長も女性としては目鼻立ちのはっきりした大柄な人だった。
社長は、「元木さんに週刊現代編集長をやっていただきます」といった。「ありがとうございます」と頭を下げる。
社長は続けて、最近の現代は部数が落ちていて、今年度は3億円の赤字になるといった。
「元木さんには、週刊現代を続けていくのか、それとも休刊するのかを含めて考えていただきたい」
講談社は11月が決算月である。創刊以来、順調に部数を伸ばしてきた現代も、平成3年にバブルが崩壊してからは下降線をたどっていた。
柱にしてきた「イロ・カネ・出世」路線は見直しを迫られていた。売り物のトルコ風呂情報(トルコ人留学生の抗議で後にソープランドと改名した)は、エイズの発生で見向きもされなくなっていた。
休日や退社後におカネを稼ぐサイドビジネスも、バブル崩壊で求人はほとんどない。日本型の年功序列や終身雇用制度が見直しを迫られ、出世どころではなく、サラリーマンたちは、いつ会社から首をいい渡されるか、怯える日々を送っていた。
それでも、当時の現代は実売50万部を維持していた。
社長が私に聞いた。
「元木さん、これ以上部数は下がりませんよね」
私は答えに窮してこう答えた。
「わかりません」
部数が急落したフライデーを躍進させた私に、週刊現代も何とかしてくれという期待が寄せられていることは分かっていた。私にも、できる自信があった。
だが、就任してすぐに、会社恐怖症とでもいうのだろうか、会社が近付くと大量の汗が体中から吹き出し、心臓が悲鳴を上げ出したのである。
何とか社に上がり、編集部の椅子に座ると、身体がずしりと重く、床に寝っ転がりたくなった。
何とか、打ち合わせをこなし、副編集長や次長たちから進行具合を聞いている間に、ようやく普通の精神状態に戻ってくる。
毎夜会合があり、酒を呑み、午前を過ぎて帰宅する。
だが、朝になると不安感で胸が締め付けられそうになる。仕方なく、出かける前に、高倉健の『昭和残狭伝』のDVDを観て、自分を鼓舞してから社に向かうが、講談社が近くなると同じ症状が出る。
困り果てた私は、以前から親しくしてもらっている庭瀬康二医師に電話した。
庭瀬医師とは作家の嵐山光三郎が引き合わせてくれた。30代半ば、嵐山が、阿佐ヶ谷の河北病院へ一緒に行こうと誘った。
年に一度の定期健診のためだった。嵐山について私も病室へ入ると、庭瀬医師が、「君も血圧を計ろう」と看護婦に指示した。私は断ったのだが、強引に看護婦が腕に幅広の帯のようなものを巻き付けた。しばらくすると看護婦が悲鳴をあげた。
庭瀬が飛んできて血圧計を見た。「220もあるぞ。こりゃあダメだ」というではないか。
以来、血圧の薬を月に1回もらうために阿佐ヶ谷へ通うようになる。寺山修司の最後を看取ったのは庭瀬医師であった。
その後、庭瀬は千葉県流山に診療所を構え、「老稚園」と称して地域の老人医療をやり始める。
庭瀬医師に症状を話すと、「君、それは精神力ではどうにもならない。薬を飲まなきゃダメだ」と即座にいう。「病名は?」と聞くと、うつ病だといわれた。そして、「実は」と話し出した。「僕もうつ病で、医院の上に真っ暗な部屋があるんだが、ひどくなると一日そこに入ってじっとしている」という。
「すぐ安定剤を送る。2錠以上飲んではダメだ」。そういって電話を切った。翌日、山のようにデパスが届いた。2錠飲んでみた。胸のドキドキ感がスーッと消え、ゆるい眠気が襲ってきた。
今振り返ると、フライデーと週刊現代では比較にならないほどプレッシャーが大きかったのだと思う。気の弱い、対人恐怖症気味の私の神経が悲鳴を上げたのだと思う。
もし、庭瀬医師がいなかったらどうなっただろう。彼はその後、極度のうつ病で入院した後、平成14年(2002年)のサッカーW杯の最中に胃がんで亡くなる。庭瀬医師は胃がんの専門医だった。
現代の話に戻ろう。手元に平成4年12月26日号の現代がある。白い表紙で、中央の写真の上に朱色で、「週刊現代が変わります」と特筆大書してある。私が編集長になって3号目ぐらいだろう。
現代の編集長になったら、表紙全面を使って「編集長が替わりました」というメッセージを出そうと考えていた。新聞広告も半分を使って同じようにやる。
だが、表紙全面を使ってやることは社が許さないだろう。新聞広告は、新聞社側からクレームがつくかもしれない。そこで、表紙を2通り作り、最後に差し替えることにした。編集長というのは前編集長に対して礼を欠くと思い、週刊現代にして新聞広告はやめた。
金曜日に早刷りが配られた。局長、役員も難しい顔をして表紙を眺めていたが、私には何もいわなかった。
クレームは発売後、鉄道弘済会から書面で来た。雑誌の表紙を広告として使ってはいけないという決まりがあるという。
週刊現代と書くのは自社広告とみなすというのである。読者からクレームは来なかったが、売れ行きはあまりよくなかった。
最初に手を付けた改革は、誌面のすべてのレイアウトをアートディレクターに任せようというものだった。コンペをやると公表したところ5人の応募があった。その中で、編集部員と私が審査をして戸田ツトムに決めた。彼は毎日新聞の誌面を刷新したことで知られている大物グラフィックデザイナーである。
当時の悩みは、特集に使えるページが少なかったことだった。ポストに比べて1折、32ページも少ない。少し後になるが、現代の部数が伸びても、関西方面はポストにどうしても敵わなかった。販売になぜなのか調べてもらった。その中で一番納得がいった理由は、関西方面、特に大阪の読者は現代とポストを買う時、両方を手に持って重さを計り、重いほうを買うというものだった。
だが、赤字が出ているため増ページは難しい。特集に割けるページを増やすためには、連載を切るしかない。
『子連れ狼』で有名な小池一夫の原作、松森正の画で『片恋さぶろう』という16ページの劇画連載があった。これをやめたかったが、小池は1972~1976年まで、現代の部数を伸ばした『首斬り朝』を連載してもらっていた。
私の先輩たちが担当になり、小池と親しかった。やめるとなれば彼らが反対するかもしれない。もちろん小池も現代の功労者としての自負を持っている。
いろいろ考えていたら手が付かないので、小池の担当者で次長のS(私よりだいぶ年上だった)に「一度小池さんと会いたい」と伝え、用件は「連載をやめてもらう」ことだと話した。
小池の仕事場にSと一緒に行った。小池にはすでに話が入っていたらしく、大柄な体から不機嫌な威圧感を漂わせていた。私は、特集を入れるためのページがない、よって何とか連載を一時中断して頂けないかと説得した。脂汗が流れた。話を聞き終え、しばらくして小池は、「わかった」といってくれた。
大下英治の連載『小説 小沢一郎』も予定より早めに終えてもらった。大下に誘われ、小沢に会った直後に連載を打ち切ったから、小沢も面食らったことだろう。
空いたのは21ページ。3、4ページの特集が5~6本できる。ありがたかった。
フライデーに比べて現代は戦艦大和みたいなもので、自分の思うような雑誌にするためには時間がかかった。連載小説も2年先まで決まっていた。
連載コラムは比較的楽だった。読者に受け入れられなければ、半年ぐらいで次々に変えていった。
残った最大の難問は、現代がやってきた「イロ・カネ・出世」というコンセプトをどう変えるのかということであった。
それに代わるコンセプトを考え出せるのか。それができなければ、部数減を続けている現代に明日はない。日夜そればかり考えていた。そんな中から生まれたのが「ヘア・ヌード」だった。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
□プレジデント・オンライン
□『エルネオス』メディアを考える旅
□『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
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