平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(18)
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週現編集長在籍は5年半。社史『物語 講談社の100年』によれば最長である。
自分でいうのもおかしいが、他社も含めて、これほど順調だった編集長は、そうはいないと思う。
取材先との緊張関係は何度もあったが、編集部内はベタ凪状態だった。
ライバル誌の週刊ポストは部数1位の座を守ってはいたが、岡成編集長は飲んでいる時、社内の愚痴をこぼすことがたまにあった。
私は、局長兼編集長で、鈴木俊男役員とは意思疎通ができていたから、部数さえ好調なら、誰に気兼ねをすることもなかった。
ABCの雑誌部数・公査レポートによれば、私が週現を引き受けた年の平均実売部数は51万306部だった。それを私が、74万部に伸ばし、前にも書いたが平均実売率は82%を超えていた。
だが、所詮はサラリーマンである。私の「いけいけ」路線を快く思わない連中が、何かあればこやつを追い落としてやろうと、手ぐすね引いていたことを、後になって知るのである。
話を編集長の時に戻そう。週刊誌の華はスクープだが、毎週、取れるわけではない。雑誌を下支えするのは、毎週読みたくなるエッセイなどの連載である。
新潮には山口瞳の「男性自身」や山本夏彦の「夏彦の写真コラム」があった。文春は、「サロン雑誌」の雄である文藝春秋の姉妹雑誌だけに、粒よりのエッセイが載っていた。
先日、82歳で亡くなった安部譲二のエッセイ、山口瞳の連載回数を抜いた林真理子のものなど、それだけを読みたくて文春を買ったものだった。
私も、エッセイを書ける人を探していた。大家ではなく新人がいい。編集部員に、「エッセイを書ける人を探してくれ」と頼んでいた。
何人か候補が出てきたが、あまり気にいらない。ある時、部員が「この人なんかどうですか」と、何冊かの本を持ってきた。浅田次郎という名だったが、私は知らなかった。
そのまま後ろの棚に置いておいた。某夜、仕事が一段落したので、棚から一冊引き抜いて読んでみた。
タイトルは『メトロに乗って』。冒頭、私の近くの地下鉄の駅「新中野」が出てくる(後で知ったが、浅田は中野に住んでいた)。
思わず引き込まれて、一気に読んでしまった。すぐにその部員に、「浅田さんに連絡を取ってくれ」と告げた。
元自衛隊員でヤバイ仕事もしていたというから、安部譲二のような人間を想像していた。会ってみると、たしかに風貌はアブナイ系だが、酒は呑まないで甘いものが好きだという。
お互い共通の話題が見つからず、その時は話の接ぎ穂を失って困った(後で、競馬が共通の趣味だとわかるのだが)。
帰り道、部員に「とりあえず始めてみるか。面白くなければやめればいい」といった。
無名作家ではないが、エッセイは初めてだというので、何回か書かせてみることにした。
だが、内容は面白いのだが、自衛隊の時の話なので、読者がとっつきにくいから、他の話から入ってくれないかと、担当者を通していった。
何度書き直させても、自衛隊の話なのである。頑固さなら負けてはいないが、あまり何回もダメ出しするのも失礼だと考え、GOサインを出した。
すると今度は、彼から、「昔からエッセイを書けるようになったら、このタイトルにしようと考えてきた」と提案してきたのだ。
「勇気凛々」。われわれが子どもの頃、テレビから流れて来た『少年探偵団』の主題歌である。いいタイトルだが、ルビを振らないと読めない。他のものにといったが、頑として聞き入れない。根負けした。
連載は、入稿時にはざっと読むが、後は担当者にお任せである。場合によっては次長に丸投げする。
1、2回目は読んだが、しばらく読まなかった。講談社主催の授賞式の会場で、旧知の作家や編集者たちから、「浅田の勇気凛々は、じつに面白いね」といわれた。
曖昧に返事をしておいたが、翌日、連載を全部読み返してみた。捧腹絶倒。これほど面白いとはと、己の不明を恥じた。
この連載で、少なくとも1~2万部は伸びたと思う。小説現代の編集者から、浅田が書いた『蒼穹の昴』のゲラを渡された。この小説が直木賞にノミネートされたとき、私は、受賞間違いないと思った。
だが、なぜか受賞を逃がしたが、すぐに『鉄道員(ぽっぽや)』で受賞する。
小説現代の浅田の担当者は大変優秀な編集者だった。作家たちからも信頼され、順調に出世の階段を上ると見られていた。
私は後から聞かされたのだが、彼は、ミステリーの女王といわれていた作家とW不倫していたというのである。
女性作家が、彼の奥さんのところへ出向き、刃傷沙汰にまでなったとも聞いた。
そんな最中、件の編集者が、フラっと入ったバーのカウンターで、突然死んでしまうのである。
岡留安則がやっていた『噂の真相』が休刊していなければ、大スキャンダルとして報じたことだろう。女性作家は後日、彼とのことを小説として発表した。その中の記述が正しいとすれば、彼らが忍び会うために借りていたマンションは、私の家のすぐ近く、東京・中野であった。
大橋巨泉とは長い付き合いだった。山口瞳たちと一緒に競馬をやり、赤坂の小料理屋や銀座のバーで、よく呑んだ。彼にも、『内遊外観』を連載してもらった。
政権批判の切れがよくて評判になり、民主党の菅直人が直接連絡してきて、参議院選に出てくれないかと要請される。
悩んでいたが、出馬を決意して当選するが、何でも自分が一番でないと我慢がならない直言居士だから、党内で浮いてしまったようで、さほど日が経たないのに辞任してしまうのである。
議員会館に遊びに行くと、「元木、オレ辞めるからな」。再び、セミリタイア生活を始め、世界中の名画を見て回っていた。週現の連載も再開した。「オレは瞳さんの連載回数を抜く」といっていた。
最後に会ったのはいつだっただろう。千葉のゴルフ場のすぐ前にある邸で、妻・寿々子の手料理を頂き、カラオケを歌い合った。
糖尿病やがんと闘いながら、悔いのない人生を送った、何とも羨ましい人生だった。
連載といえば、立川談志師匠の『談志百選』を始めたのは、私が週現編集長の最後の号だった。
私は落語が好きだ。中でも、談志の落語が大学生の時から好きだった。寄席や紀伊国屋ホールへ聞きに行った。
談志師匠の弟の松岡由雄と知り合い、師匠とも付き合うようになった。時には差し向かいで、落語を語ってくれることがあった。至福の時であった。
白斑症という喉の病気で声が出にくくなり、ビールと睡眠導入剤ハルシオンと精神安定剤デパスを一緒に呑んで、立ち上がることもできない、高座で座ることもできないという最悪の状態になってしまった。
私が、「20人ぐらいの少人数で、師匠の話を聞く会をやらせてください」と頼んだ。かすれた声で「ああいいよ」といってくれた。
これが最後の高座になる。当日、上野のうなぎ屋の別館大広間に、80人ぐらいの人が、ひと目師匠を見ようと詰めかけた。何とかやってきた師匠の顔には精気がなかった。
全く喋れない場合を想定して、弟子の立川志らくを控えさせておいた。座布団を重ねた上で、師匠は、声を振り絞り、途切れ途切れだったが、2時間近く話してくれた。
その時、私と話している写真がオフィスに飾ってある。
だが、立川談志はそこで終わらなかった。もう一度高座に出たいと、自から入院して、ビールとハルシオンとデパスをカラダから抜いたのである。
そして2007年12月18日の「よみうりホール」で、終わってから談志自ら「神が降りて来た」と呟いた、伝説の『芝浜』を演じるのである。
話は戻る。談志師匠から、文楽、志ん生だけではなく、オレが選ぶ現代の芸人も入れた「談志百選」を連載したいと頼まれる。
もちろん「やりましょう」と二つ返事で引き受けた。だが、紙の雑誌にはページ数に限りがある。山藤章二画伯の似顔絵を入れて、少なくとも3ページは必要だ。
ぐずぐずしているうちに、編集長を降りる日が近付いてきた。何とか最後の号で連載を開始した。
次の編集長には、「お前が嫌なら止めてもいいが、少なくとも50回ぐらいは続けてくれ」と頼んだ。快諾してくれた。講談社から単行本にまとまって、師匠はとても喜んでくれた。
談志師匠の最後の連載も、私が口を聞いて週現で始めた。声を失い、がんが進行する中、亡くなる直前まで、連載に赤を入れていた。立川談志がいなくなったことで、私の人生に大きな穴が開いてしまった。
私が週刊誌編集長時代、「反権力」「週刊誌ジャーナリズムを追求した」などといわれたことがあるが、本人に全くその気はなかった。
学生時代のほとんどをバーテンダー稼業に現を抜かし、大学紛争や早大学館闘争などとは無縁だった。
だが、自分の中に、闘争に命を懸けて機動隊と渡り合って殺されたり、退学せざるを得なくなった人間たちに対する「うしろめたさ」があったのはたしかだった。
志半ばにして倒れていった彼らの「遺志」を継いでやらねば、という思いが、編集者になってからずっとあった。
ノンフィクション・ライターの本田靖春から、『戦後民主主義』の素晴らしさを教えてもらったことも影響しているはずだ。そうした思いが、小沢一郎の唱える「普通の国」に対して疑問を抱き、反小沢キャンペーンに繋がったことも確かである。
戦争のできる普通の国にしないためにも、日本国憲法の改悪は許さない。
そうした思いを全部ぶちまけたのが、私の編集長最後の号(平成9年11月15日号)でやった、「一万人アンケートを実施 日本国憲法を改正すべきではない」という15ページの大特集だった。
これほどのカネと時間とページをとった週刊誌の特集は前代未聞だろう。新聞広告にも自らの筆でこう書いた。
「日本国憲法の前文には『主権が国民に存する』と書いてあります。しかし、現代は主権在官、主権在政で、国民に主権があることを皆が忘れてしまっています。
また、ここへきて一部の政治家や新聞が声高に憲法改正をいい始め、共産党以外は総与党化したいま、衆参両院の三分の二以上の賛成を集め憲法改正を発議する危険も現実味を帯びてきています。九月には新ガイドラインを日米双方で合意して、橋本政権は日本が戦争当事国になることを容認し、国是であったはずの平和主義は形骸化してきています。
崇高な平和憲法を国民の合意として受け入れ、戦後民主主義を育んできた日本を再び戦争へ巻き込むような過ちは絶対に犯してはなりません。そこで本誌は、一万人以上に及ぶ大規模なアンケートを実施しました。これによって、現行憲法を『改正すべきではない』と考えている国民が過半数を占め、第九条を遵守すべきだという声は七割を超えていることがわかりました」拙い文章だが、必死さだけは伝わったかもしれない。この中の橋本政権を安倍政権に変えれば、今の状況とうり二つである。
裏話をいえば、1万人のアンケートを取り終わった時点では、護憲派と改正容認派はだいたい同数だった。
それでは、訴える力が弱いと考えた私は、担当者に、10%以上の差が出るまで、アンケートを続けてくれと指示した。
だが、差はそれほどつかなかった。今から20年以上前も、憲法改正容認派はかなりいたのである。
この号は全く売れなかったが、社内はともかく、社外での評価は高かった。
無事、編集長をバトンタッチした私は、局長専任となった。私が担当する一局には、週現のほかにフライデー、月刊現代があった。
Viewsというビジュアル誌もあったのだが、平成9年の局長会で会社から、月刊現代とViewsのどちらか一誌を休刊せよという厳命があり、悩んだ末に、赤字が月刊現代の倍以上あり、コンセプトが創刊時と変わってきてしまったViewsを休刊するほうを選んだ。
月刊現代は、ノンフィクションの発表媒体として残すべきだと考えたのだ。
月刊現代の赤字は年に5億ぐらいだったと記憶している。週現とフライデーが大幅な黒字だったから、簡単に吸収できたし、ジャーナリズム誌、写真誌、ノンフィクション誌という布陣は、他社と比べても最強だと私は考えていた。
現場を離れると暇なものである。週現の読者がだんだん高齢化しているため、若者向けの週刊誌を創刊せよという特命はあったが、毎日が日曜日の様なものだった。
漠然とだが、鈴木俊男役員は平取り10年の「最長不倒距離」だから、そろそろ常務に上がるか、子会社の社長に転出するという時期である。
次の役員は、不遜かもしれないが、私を置いてないと思っていた。役員なんぞになりたいわけではなかった。
だが周りを見渡しても、私以外に適任者がいるとは思えなかったし、私なら一局全体を把握できる。
そんな私の考えが甘かったと知らされるのは、翌年の平成10年の夏であった。
7月25日に和歌山県で、夏祭りに提供されたカレーに毒物が混入され、それを食べた67人が中毒症状を起こし、そのうち4人が死亡する「和歌山毒物カレー事件」が起こる。
後に林眞須美が逮捕され、無罪を訴えるものの、平成21年に最高裁で死刑が確定する。
事件が発生してすぐに、週現、フライデーも記者とカメラマンを派遣した。取材合戦は熾烈を極めた。
そんな中、フライデーが、林眞須美夫妻の写真を間違えるという“事件”が起こる。
加藤晴之編集長から自宅へ電話がかかってきた。「今日発売したフライデーで、林夫妻と間違えて、違う人の写真を掲載してしまった」というのである。
すぐに担当編集者を現地に行かせて謝罪させろと指示する。家にあったフライデーを見るが、どこがどう違うのか、私にはわからない。
会社に行って役員に報告する。加藤編集長から、なぜ間違ったのかの説明を受ける。
どうやら、写真を撮ろうと林夫妻の家を張っていたカメラマンが小用のためにそこを離れた時、訪ねて来た林の友人夫妻が家に入ったというのだ。
それを知らずに、戻ってきたカメラマンは、姿を見せた友人夫妻を林夫妻だと思い込み、シャッターを押した。
時間が切迫していたのと、その当時は、現地で現像するという体制がなかったので、撮影したフィルムを東京へ帰る記者に渡してしまった。
現像した写真を、現場を知る記者かカメラマンに確認するのが編集のイロハだが、担当編集者はそれをせず、林夫妻の写真だとして掲載してしまうのである。
お粗末な現場のミスであったが、間違えられた当人たちは、当然ながら怒り心頭で、「フライデーを回収しろ」と通告してきた。
新聞、テレビも、この写真取り違えを問題にして、会見を要求。担当者と広報担当の人間が、和歌山の書店を回り回収作業をするなどして、最終的には、何とか示談ということで、決着をつけた。
後日、私が、この経緯を関係者たちから聞き取りをして、二度とこうした不祥事が起きないよう、改善すべき点をまとめたものを役員会に提出した。
責任は、局長である私にあることは当然だが、知らされたのは発売後だから、事前に私に打つ手があったとは思えない。
加藤編集長は、たしか数カ月間の減俸処分だったと思う。私も、そのぐらいは覚悟していた。
だが、その少し後から、私の周りで「異変」が起こっていた。私について書かれた「怪文書」がばら撒かれたのである。
そして翌年2月に行われた役員会で、私は第一編集局長の座を追われ、部員が一人もいない新企画室長へと左遷されてしまうのである。
夕刊フジ(平成11年2月26日付)は、「講談社名物編集長異動ナゼ」と報じている。
「『ヘア・ヌード』という言葉を作るなど、“名物編集者”として知られる『講談社』(東京・音羽)の元木昌彦第一編集局長が、『企画室長兼新雑誌企画部長』に異動した。『FRIDAY』や『週刊現代』の編集長も務めた局長の異動、ナゼ?
(中略)
関係者によると、元木さんは発令翌日の二十三日、部下の前で『再び一兵卒に戻ることになりました』とあいさつしたという。関係者は『驚いた。今後の身の振り方について、いろいろな声が出ている』と話す」この人事の直後に出された怪文書が手元にある。
そこには、先のフライデーの写真取り違えの問題、編集長時代に訴訟が多発したこと、私がつくった『マスコミ情報研究会』の事務局長が公安の要注意人物である、私の付きあっている女性が北朝鮮とつながりが噂されるなど、「一連の元木スキャンダルとして走り回っていて」、「(元木の)役員の目はなくなった完全な左遷だ」と書いている。
(文中敬称略=続く)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。連載
□J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
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