ラガーマンの経営者群像~大和ハウスの芳井社長、サントリーの土田雅人氏~(前)
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アジア初のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会は、9月20日、東京スタジアムで開幕した。新日鉄釜石7連覇、神戸製鋼7連覇の時、日本は空前のラグビー人気に沸いた。あの時代を疾駆したラガーマン出身の経営者を取り上げてみよう。
大和ハウスの芳井社長は、元神戸製鋼のラガーマン
大和ハウス工業の芳井敬一社長は、神戸製鋼所のラガーマンとして活躍した異色のキャリアの持ち主だ。
大和ハウスのドン・樋口武男氏の後継者として、芳井氏は17年11月、大和ハウスの社長に就任した。1958年、大阪府生まれ。中央大学文学部哲学科を卒業、神戸製鋼所の物流子会社に入社した。
ラグビーを始めたのは大阪府立大和川高校(現・大阪府教育センター附属高校)で、大阪代表チームのキャプテンに抜擢された。
中央大学進学してからもラグビーに熱中し、3年生からレギュラーに定着した。卒業後は小学校の教師になるつもりだった。しかし、大学4年生の夏合宿で肩を怪我したまま最後のシーズンを終えたのが、不完全燃焼だった。どうしても、ラグビーを続けたくて、神戸製鋼ラグビー部の門を叩いた。
神戸製鋼には、強豪大学から集まったすごい選手たちがいた。彼らに囲まれてラグビーに打ち込んだら、完全に燃え尽きることができた。
それで3年でラグビーには見切りをつけて、仕事に精を出すことにした。
1998年10月、仕事帰りに車を運転していた芳井氏は、濡れた路面を走ってくる後継車から追突され、腰の骨を首に移植する大手術を受けた。8カ月も入院し、身動きができず天井ばかり見ていた。当時、貿易実務を担当し、ニューヨークに語学研修に行き、海外赴任が決まっていたのが水の泡となった。
神戸製鋼ラグビー部は黄金時代を迎えようとしていた。ラグビー界のスーパースター、平尾誠二氏(2016年53歳の若さで死去)は5年後輩。チームは平尾選手が率いて、1988年から94年まで、日本選手権で7連覇を達成した。
一緒に汗を流したラグビー仲間たちが華々しく活躍するなか、芳井氏は、これからどう生きて行けばいいのか、煩悶する日々が続いた。
32歳で大和ハウスの営業マンに転職
適性検査を受けたら営業に向いていると言われた。伸び盛りで最も営業が厳しい上場会社を探したら、入社後5年間の離職率が高いトップスリーに大和ハウスが入っていた。
1990年、32歳で大和ハウスに転職。倉庫や事務所や寮の建築を担当する法人営業部に配属され、飛び込み営業に回ったが、1年目の受注はゼロ。3年目に大阪支店から神戸支店に異動。神戸にはラグビー部の仲間がいたから、社外の人脈が広がり、営業成績が上がった。当時は、神戸製鋼ラグビー部の黄金時代で、ラグビー部OBの芳井氏は、神戸の企業の信用を得ることができたのである。
(つづく)
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