2024年12月22日( 日 )

平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(20)

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 講談社の株主総会は毎年2月後半にある。

 私は役員になったことがないから詳らかには知らないが、局長以上の人事がここで決まるようである。

 役員に昇格する者、役員を退任する者、子会社に出向させられる者など、社長以下一握りの人間たちの“意向”で決定され、サラリーマン人生の勝ち組負け組が決まるのである。

 私は、社内人事には関心がなかった。というより無知であった。雑誌では、出世するためには、上役に気に入られろ、盆暮れの贈り物を忘れるな、上役の引っ越しには真っ先に駆け付けろなどと、つまらない「出世する何か条」という特集を山ほどやってきたくせに、そのどれも自分でしたことはなかった。

 編集長としての実績はそこそこ残してきた。勤続25周年の時には、同期30数名を代表して、社長以下エライさんたちがズラッと居並ぶ前で挨拶をした。

 このままいけば、役員にはなれずとも、役員待遇ぐらいでサラリーマン人生を終えるのかなと漠然と考えていた。

 平成13年の株主総会が終わった直後、社長室の人間から電話があった。「○○時に社長室へおいでいただきたい」。少し早めに社長室の応接へ顔を出した。

 野間佐和子社長とF常務が待っていた。社長から「元木さんには三推社へ行っていただきます」と切り出された。正直、突然のことだったので、意味がよく呑み込めなかった。

 三推社(現在は講談社ビーシー)は、ベスト・カーという自動車専門の隔週刊誌を出している出版社で、当時は、実売30万部といわれ、業界ナンバー1誌だということぐらいは知っていた。

 だが、クルマに全く関心のなかった私がなぜ? という疑問が口をついて出た。

 「私はクルマには全く関心がありません。申し訳ないですが、これはミスキャストだと思います」

 すかさず、F常務が、「専務取締役で行ってもらう。社長含みということで」といった。

 人事異動は、相手の要望を聞く場ではない。上が決定したことを申し渡す場でしかないのだ。

 私は、最後に社長にこう聞いた。「社長含みというのは、社長にするということですか」。野間社長は少しいいよどみながら、「そう考えて頂いて……」といった。結局、平成18年まで三推社にいることになるのだが、私を社長にはしなかった。

 私を子会社に出向させる以前に、布石が打たれていたことを、後になって知るのだ。私の直属の上司で平取締役を10年やった鈴木俊男を、常務に昇格させずにサイエンティフィクという子会社に出した。

 杉本暁也という月刊現代編集長を経験し、広報室長で定年を迎える直前だった人間を、一局の担当役員にもってきたのである。

 これも後で知ったことだが、私の出向先は、最初は三推社ではなかったようだ。講談社も出資している東京ケーブルネットワークという会社に行かせようという案が出たが、他の役員たちから、「それはあまりにも元木が可哀想だ」という声が出て、変更されたそうである。

 人間、憎まれたり、恨まれたりするうちが華で、哀れに思われるようでは、もはやこれまでということであろう。

 私は弱味を他人に見せられない人間である。母校の早稲田大学の第二校歌といわれる『人生劇場』の口上に「ああ歓楽は女の命にして、虚栄は女の真情であります」というのがある。私の場合は、「虚勢を張るのが男の命」というチンピラヤクザ的美学から一生抜け出すことができずに、年老いてきた気がする。

 どうせ決まったことだからジタバタしても仕方ない。「三推社へ行くそうだな」と聞かれると、そう答えていた私だが、裏ではジタバタしていたのである。

 何人か他社の人間に接触して、「あんたのところでオレを引き取らないか」と、相談とも脅迫ともとられかねないことをいって回ったのである。

 だが、50代半ばの年寄りを厚遇してくれるところなどあるはずはなかった。積極的に「うちに来い」といってくれた出版社もあったが、講談社の年収からはるかにダウンする条件だった。

 今思い返せば、私を子会社に追い出した連中を見返してやりたかったので、講談社を辞めてまで、編集の仕事がしたかったわけではなかったのだ。

 私の長年の知人である元文藝春秋の花田紀凱は、マルコポーロ編集長の時、『戦後世界史最大のタブー。ナチ「ガス室」はなかった』という特集をやり、編集長を更迭され、しばらく不遇の時代を送った。

 その後、朝日新聞に引っ張られ、業界的には大きな話題になった。そこで出した新雑誌『UNO』はうまくいかず、朝日新聞から角川書店などを経て、ウルトラ保守雑誌『Will』(現在は『月刊HANADA』)を創刊した。

 私とは考え方は違うが、彼の編集を心から愛しているところや、人間好き、いくつになっても好奇心旺盛なところは、私にはない優れた所である。

 私は編集作業が大嫌いである。他人の書いた原稿は一度しか読まない。行数計算はほとんどしない。月刊誌にいた時も、7ページの特集記事でも、初稿ゲラはだいたい1,2ページははみ出していた。

 週刊誌も4ページの特集で、ゲラが出てくると1ページはみ出していることなどしょっちゅうだった。したがって、私の作る特集記事には、写真がない、広告がないことがままあった。はみ出した行数を素早く収めるためには、それが一番手っ取り早いのだ。

 したがって、週刊誌の見開きで、小見出しはあるが、写真が一枚もない真っ黒なページができ上がる。編集長から「写真ぐらい入れろ」といわれるが、同じことを繰り返した。

 そんな私に編集長が務まったのは、そういう「細かいこと」を気にしなくていいからであった。

 こんな編集者として半端な人間を好条件で使ってやろうという出版社がないのは、当然のことだった。

 聞けば、子会社に出向しても、講談社と同じ年収で、幾何かの交際費も出るという。

 私は心に決めた、定年までこの会社に居座り続けてやろうと。

 三推社に異動したのは江戸川橋の桜が咲く少し前だったと記憶している。

 Web現代や週刊現代で記者をやっていたフリーライターの安田和彦(本名菰田)が、「一緒に行きます」といってくれた。

 安田とは、年がだいぶ下だし、親しいというほどではなかった。だが、人懐こいが少しはにかみ屋のところが、いわゆる記者らしくなく好感を持っていた。

 三推社では、出版部付の記者として働いてもらった。定年後に市民メディア『オーマイニュース』に行った時もついてきてくれた。

 彼がいなかったら、三推社での6年余りの会社生活が続いたかどうか心もとない。仕事の手伝いはもちろんのこと、話し相手になってくれたり、毎年恒例になった江戸川橋の花見の会の準備まで、嫌な顔一つせずにやってくれた安田がいてくれたおかげで、屈託のない日々を送ることができた。

 だが彼は、一人になるとじっと考え込んでしまうところがあった。平成22年頃だったか、突然亡くなってしまうのである。

 安田を通じて知り合った小林龍一夫妻と彼の家を訪ね、奥さんに挨拶して焼香をさせてもらった。私がサラリーマン人生の中で最も孤独だった時、彼から受けた優しさを思い返すと、お礼の言葉もない。

 三推社の初日、社員30数名が集められた席で挨拶をした。ベストカーという雑誌を中核に、クルマに関連するアウトドアなどの雑誌や単行本の編集をしている彼らの前で、こう切り出した。

「私はクルマが嫌いだ」

 みなは茫然とした顔をしていた。続けて、「クルマは一つ間違えば人殺しの道具になる。トヨタや日産は、エンジン性能やモデルチェンジにばかりカネをかけているが、これからはもっと安全対策にカネをかけるべきだ。これからは雑誌も、そういう観点からメーカーに意見を申し立てる誌面作りにしていくべきではないかと考える」

 勝股優は当時、クルマ業界では知らぬ者のない名編集長だった。だが、私のこの挨拶で、彼と私の間に厚く高い壁ができたことは間違いない。

 彼にケンカを売ったわけではない。私は、野間社長にもいったように、この出版社にとって私は異分子だということを宣言したのである。

 そのために、講談社を追い出され、行った先でも厄介者扱いになり、文字通り「何にも専務」として過ごすことを、自らに課したのである。

 出版部の片隅に机を置かれ、仕事といえば、週に1,2回やる企画会議。月に一度、講談社に出向いて、エライさんの前で出版企画を説明して許可をもらうことしかない。

 小人閑居して不善をなすという。不善ではないが、有り余る暇を自分の為に使おうと考えた。

 まずは、Web現代時代に連載していたノンフィクション・ライターたちへのインタビューを一冊にまとめる仕事があった。

 ここには、私が週現編集長時代から連載していた情報誌『エルネオス』のインタビュー「メディアを考える旅」からも10数人、それに本田靖春の講演録も入れたから、かなり大部なものになってしまった。

 本のタイトルは『編集者の学校』。装丁を旧知のイラストレーター南伸坊に頼んだ。460ページを超えて、定価も2,800円也。

 当初は元木昌彦編にしようと思った、だが、もし、そうすることで、講談社からクレームがつき出版できなくなるかもしれないと、万が一を考え、Web現代編とした。

 読者は出版社志望の学生や若い編集者を想定したが、これほどの値段で売れるのか全く予想がつかなかった。

 初版ははっきり覚えていないが、6,000部ぐらいは刷ったのではないか。今思えば講談社の販売は強気だったと思う。今ならせいぜい初版1,500部ぐらいだろう。

 講談社も新聞広告を少しは出してくれるだろうが、それをあてにはできない。売るために何をするか。

 何人かの知人に相談するうちに、出版記念会を開こうとなった。出版は8月25日だから、少し遅くして11月の23日。私の誕生日の前日にした。部数をさばきたいから、できるだけ多くの人に来てもらう。

 嬉しいことに、神田の東京堂や新宿の三省堂では平積みにしてくれて、売れ行きもいいという販売からの報告も入る。

 さらに、出版記念会の頃に二刷りが出ることが決まった。うまくいけば1万部も夢ではない。

 だが、突然暗転する。出版記念会の3日前に、おふくろが突然亡くなってしまうのである。享年80。

 発見したのは長女だった。朝、声をかけようと部屋に入ったら、ベッドで寝たままこと切れていた。

 二階にいた私は、悲鳴を聞き駆け付けて心臓マッサージを施したが、生き返ってはくれなかった。

 しばらく前から、「お父さんの食事の世話で疲れる」とこぼしていた。「しばらく病院へでも入って、のんびりしたい」ともいっていた。

 おふくろの知り合いに慶應病院の院長がいた。時々、具合が悪くなると、院長に頼んで慶應に入院した。

 病院の食堂から神宮の森が見えるのが、とても気に入っていた。
「今回もそうしたら」と私がいうと、おふくろはすぐに電話したらしい。だが数日後、検査に行ってきたが、今のところ入院するほどの症状は見つからないと、入院を断られてしまったのだ。

 がっかりした様子を見かねて、私も同行して院長と掛け合ったが、「現在、お母さんは入院する必要はない」と、再び撥ねつけられてしまった。

 他の病院ではダメかというと、慶應以外は嫌だという。食事を作ることはできそうなので、しばらく様子を見ることにした。

 あの時、無理やりにでも他の病院へ入れていたら、おふくろの命は助かっていたのではないか。後悔しきりであった。

 おふくろが亡くなった時刻に、私は酒に酔って、おふくろの部屋の前を通り、自室で寝てしまった。

 今思い出しても悔いることが多いが、その時は、おふくろの葬儀をどうするか、3日後に迫った記念会をどうするか、決断を迫られていた。

 事務方を取り仕切ってもらっていた市村直幸『エルネオス』編集長は、「今から出版記念会を延期する通知を出すから、中止しましょう」といってくれた。

 だが、私はこの記念会に賭けていた。元気なら、こういう祝い事の好きだったおふくろは喜んで出席してくれたはずだ。

 「おふくろ許してくれ」と遺体に手を合わせ、葬儀は、出版記念会の翌日にすることを、私の一存で決めた。

 迷惑をかけ通しだったおふくろに、最後まで迷惑をかけてしまった。
「かあちゃん、許してやんない」 

 出版記念会は盛会だった。700人近くが集ってくれた。そこで私のおふくろの亡くなったことを知った人たちが、葬儀にも来てくれたため、賑やかなことの好きだったおふくろは喜んでくれたのではないか。勝手にそう思っている。早朝、氏家齊一朗日本テレビ社長も駆け付けてくれた。

 今でも、出版社の編集者はもちろん新聞記者の中にも、「私は、この本を読んで勉強しました」という人に会うことがある。

 この手の本が出されたのは初めてということもあったのだろう、ロングセラーになり、講談社文庫にも収録された。

 何かのパーティで、野間社長から、「こういう本でも売れるんですね」という、喜んでいいのかどうか分からない言葉をかけられた。

 一冊の本を出したことで、私の人生も違う形で回転し始めたのである。
 東京・巣鴨にある大正大学から講師として来てくれないかという声がかかったのをはじめ、上智大学、法政大学、明治学院大学などからも講師に来てくれという誘いがあった。

 若い編集者たちへの講演も頼まれた。慶應大学や早稲田大学などのマスコミ志望の学生たちとの交流も増え、私が教えた学生たちが編集者や新聞記者として最前線で活躍している。

 月刊『マガジンX』というクルマ雑誌がある。そこの神領貢編集長が私のところに来て、連載を頼めないかといってきた。ベストカーと比べれば部数は少ないが、ライバル誌であることは変わりない。

 二つ返事で引き受けた。その後も、「あんたの編集長時代のことを書かないか」「あんたの書いているブログが面白いから本にしたい」という話も来るようになった。文庫の解説なども頼まれた。

 平成13年から14年は、言論弾圧法として悪名の高い「個人情報保護法」案が国会に提出された時期でもあった。

 ノンフィクション・ライターの吉岡忍、吉田司、佐野眞一、佐高信、森達也、朝倉恭司たちやマガジンハウスの編集者たちと、反対集会をやったり、国会前を様々な衣装を着てデモったりした。

 残念ながら一度は押し戻したものの、成立してしまったが、その後は、ノンフィクション・ライターたちとアメリカに行き、ハーバード大学の教授と意見交換したり、ニューヨークの9・11跡を巡る旅に行ったりと、講談社でエラくなっていたらできなかったであろうことを十二分にさせてもらった。

 充実した日々を送らせてもらった三推社には感謝である。向こうは迷惑だっただろうが。

 平成18年11月24日、私の61歳の誕生日に目出度く定年を迎えた。

 早稲田大学の正門近くのマンションに個人事務所をつくった。肩書は編集者。

 名刺の裏には、私の略歴が小さな活字で印字されている。見る人にとっては見にくくて迷惑だろうが、私にすると、オレのこれまでの人生は名刺半分にしかならないのだと感慨深い。

 事務所を持ったはいいが、これをやるというアテがあったわけではない。雑誌の連載や大学での講義。ネットメディアからの執筆依頼も舞い込んでくるので、それなりに忙しい。

 こんなものでいいか、そう思っていた。それが12月も押し迫った頃、一本の電話で急転するのである。

 それは鳥越俊太郎からだった。彼は夏ごろから、韓国で成功したネット市民メディア『オーマイニュース』の日本版の編集長をやっていた。

 韓国で呉連鎬(オ・ヨンホ)が立ち上げた市民メディアで、ネットを通じて市民たちが意見を闘わせるという画期的な形が爆発的にヒットし、韓国の大統領選挙でも大きな役割を果たしたことが日本でも話題になった。

 その日本版を出すというので、ネットジャーナリズムに多少詳しい私は、鳥越を含めた何人かから意見を聞かれていた。

 詳しくは書かないが、韓国発であること、日本人は意見を闘わすことが苦手、ネットでなくても日本にはいいっ放しの自由がある(当時は2ちゃんねる全盛時代)からこうしたメディアは必要がないなどの理由を挙げて、オーマイニュースは日本では成功しないといっていた。

 そのこともあったのだろう、鳥越は、就任早々発言が炎上するなどで嫌気がさし、またがんが見つかったことで、誰かに譲りたいと考え、私に電話をかけてきたのだ。

「元木さん、編集長を代わってくれないか」

 関係者たちに成功するはずはないといっていた私に、オーマイニュースから声がかかるとは、人生って不思議なものだ。

 定年になったばかりで、事務所は開いたものの、何をやるか「開店休業中」だったので、鳥越編集長には、「年明けにでも会って話しましょう」といって携帯を切った。

 2月中旬に彼から電話がかかってきた。いきなり呉社長に会ってくれという。

 オーマイニュース編集長とは何をやるのか、彼の口から聞きたかったのだが、一足飛びに社長と会えというのは、がんの進行が早いのだろうかと心配した。

 2月下旬、呉社長が日本に来るというので、地下鉄・虎ノ門駅近くの古いビルにあるオーマイニュースを訪ねた。

 案内された部屋には、鳥越編集長と呉社長がいて、何事か打ち合わせをしていたようだった。

 鳥越編集長は、呉社長に紹介すると、「元木君、頼むな」と席を立って行ってしまった。

 残されたのは、呉社長と、韓国から東大に留学に来ている通訳の女子大生と私が取り残された。

 呉社長は日本語も少し喋る。3時間近く、オーマイニュースの感想や日本のメディアの現状について話をした。

 何のことはない、それが面接だったのだ。終わると、平野日出木副編集長を呼び入れて、3月からよろしくとなったのである。

 平野は元日経新聞の記者だった。鳥越編集長が不在になることが多かったようで、彼が実質、編集部を取り仕切っていた。

 初出社は3月1日だったと思う。初日、ややビックリしたのは、総勢20人ぐらいの大所帯であったことだ。

 ネットメディアは、少数精鋭といえば聞こえがいいが、少ない人数で始めるのが常識である。韓国で成功したからといって、そう潤沢な回転資金があるわけでもないだろうと、余計な心配をしたが、後で聞いてみると、呉社長は孫正義ソフトバンク社長と親しく、何でも9億円近い資金の提供を受けたそうである。

 呉社長から告げられた月収は100万円だった。講談社の年収2千数百万円がなくなり、年金暮らしには、有り難い申し出だった。

 といっても、カミさんに半分は持っていかれたが。

 私の人生をひと言でいえば「しりつぼみ」人生である。出出しはいいのだが、後半になると運も下り坂になる。ここもそんな予感がしたが、見事的中するのである。

 入ってすぐに、ここは遠からず潰れるのではないかと思った。失礼だが、ネットメディアにしては給料が高い。それはいいことだが、システム構築にカネをかけ過ぎているのだ。それも、最初に作ったシステムがよくないので、新しいシステムを一から作っているというのである。

 そこには、ミクシーのように、市民記者やニュースを見に来た人たちが交流できる場も追加されていた。

 私は、ニュースメディアなのだから、できるだけシンプルなものにするべきだといったが、プログラマー(韓国から来た女性たちのようだった)たちは、もう完成間近いので、今更そんなことはできないと不服そうだった。

 そんなことがきっかけだったのか、彼女たちはシステムが完成すると、われわれへの説明も一切なしに帰国してしまったのである。

 酷い話だが、それよりも、そのシステムをどう動かすのかが喫緊の課題であった。

 幸い、Web現代時代に手伝ってもらった優秀な若い夫婦のプログラマーに来てもらって、稼働することができた。

 当時、ニュースを書いて送ってくれる市民記者は3,000人を少し超えていた。メールで送ってくれた原稿を、担当者がチェックして送り返し、市民記者からOKが出れば、私のところへ回って来る。

 そういう原稿が1日30本から40本程度。それも身近なところで起きた珍しい体験や、台風や地震でこういう被害が出ているという生々しい“事実”を書いて来てほしいのだが、その多くは「私はこの問題についてこう思う」というオピニオン原稿がほとんどだった。

 原稿がアップされ、公開されると、案の定、誹謗中傷まがいのコメントが付き、それが嫌で、2度と書かなくなる記者も多かった。

 呉社長や鳥越編集長のビジネスモデルは、市民記者の数を1万人にすれば、ページビューも増え、それに応じて広告も入るというものだった。

 私は、たとえ1万人になったとしても、広告収入で編集部を回していくのは至難だと思っていた。

 市民記者たちの原稿をまとめて雑誌風に綴じて販売してみたが、売れない。企業広告を入れられないかと知り合いを回ったが、ネット広告に関心の薄い時代だったから、何とか5社を口説いたが、総額50万円にしかならなかった。

 販売も広告担当も一人もいなかった。オーマイニュースは2年近く存続したが、その50万円が全収入であった。

 部員の中には取材して自分で書く人間もいたが、大きな話題を呼ぶことはなかった。

 市民記者たちのための「取材&書き方」講座をやったり、地方へ出かけて行って飲み会などもやったが、来てくれるのはほんの数人程度。

 年の暮れまでに市民記者は5、600人増えたが、展望が開けるほどではなかった。

 冬休みに、カミさんと一緒にフィンランドへサンタクロースに会いに出かけた。私はクリスマスが子どもの頃から、正月よりも好きだった。

 親父は新聞社の貧乏サラリーマンだったから、誕生祝など貰ったことはない。だが、クリスマスには、鳥の丸焼きとクリスマスケーキがちゃぶ台に乗った。ビング・クロスビの『ホワイト・クリスマス』や『ジングルベル』が茶の間にも流れた。ささやかなクリスマスプレゼントももらった。

 年に1度しか行かない近所の教会では、賛美歌を歌って10円ぐらい寄付すると、赤い靴下にキャラメルや板チョコを一杯入れてくれた。

 私の次男は12月25日生まれである。子どもの頃に、「お前の誕生日は世界中が祝ってくれる」とよくいったものだ。

 何でも、サンタクロース生誕の地はフィンランド中部のロヴァニエミというところだそうだ。一度行ってみたいと思っていたのだ。

 雪の降りしきるロヴァニエミの小さな教会のミサに参加して、サンタに会いに行った。

 サンタと一緒に記念写真を撮り、いい気持ちでいるところに、オーマイニュースの女学生兼呉社長の秘書から電話がかかってきた。よく聞き取れなかったが、こんなことをいったようだ。

「呉社長が、元木さんに日本の社長になってもらいたいといっている」

 呉社長は、ほとんど韓国にいて、月に1度か2度、日本に来る。そのため、色々な問題が起こってもすぐに相談ができなかった。

 しばらく前に、日本にも社長を置いたほうがいいと進言したことがあった。だが自分がなるなど予想だにしていなかった。

 年の瀬で、遠く離れているところまで追いかけて、相談する話ではないだろう。

 そう思ったが、めんどくさいので、わかったといって電話を切ろうとした。すると、「30日に実印と戸籍謄本を持ってきてください」と続けた。

 相当急いでいたらしい。なぜなのかはよくわからないが、日本のオーマイニュースを早く手放したかったのだろう。

 結局、年末ぎりぎりに代表権のある社長に据えられてしまうのである。
 友人たちからは、「よした方がいい。身ぐるみはがされるぞ」と脅された。

 それがすぐに現実のものになるのである。

 社長になると、カネの流れを知ることができる。見て驚いたが、残金は1億円を切っていた。しかも、システムのメンテナンスや人件費で、月に2,500万円ほど出ていく。ということは、あと数カ月で資金が枯渇するというのは、私のような数字オンチでもわかる。

 すぐに通訳の女性から韓国へ電話をさせる。呉社長は電話口で、「元木さん大丈夫。孫さんとは友達だから、2,3億円ほど追加で出してもらうから心配しなくていい」。2月だったか3月だったかは忘れたが、日本に来て孫さんに会うから、その時頼んでみるというのである。

 私には彼の楽観論が信じられなかった。2年近くやってきて、収入が50万円しかない会社に、ビジネスに聡い孫正義が、追加でカネを出すとは思えなかったからだ。

 早速、友人の弁護士に相談すると、東大在学中に司法試験を受かり、現在は、アメリカ法人の日本支社に息子がいる。彼は会社法専門の弁護士だから、相談してみなさいといわれた。

 幸い、オーマイニュースから近い神谷町にそのオフィスはあった。早速行って、もしカネが借りられなかったら、相談に乗ってくれるよう頼みに行った。

 父親とは全く違う、スマートな好青年であった。

 呉社長が来日し、次の日に孫さんと会うという。私も同席させてくれというと、今回は私だけにしてくれと断られた。

 次の日、呉社長は出かけていったが、1時間もしないうちに戻ってきた。表情を見れば、交渉が決裂したことがわかる。

 彼は、1億でもダメかと聞いたが、1円も出す気はないといわれたという。

 万事休す。編集部員を集めて、このことを告げた。解雇通告は1カ月前だが、1カ月分の給料が払えるかどうか心もとないと、率直に話した。部員たちは案外冷静だった。

 しかも、入っている古いビルが壊されるため、新橋駅の近くに引っ越したばかりだった。

 韓国へ帰った呉社長に、「孫さんのカネが全部、日本のオーマイニュースに入っているとは思わない。当座、5,000万円でも出してくれないか」と連絡するがらちが明かない。

 数日後、韓国へ飛んで直談判する。結局、2,000万円ぐらいなら出せるという話になったが、1月分にも足りない。

 弁護士とも打ち合わせて、6月でオーマイニュースは倒産させる。だが借金が残るかもしれない。

 部員を全員集めて、5月一杯で解雇。6月ひと月は、次の職場を探すために、ここを使ってくれていいといい渡そうとしたとき、ソフトバンクから来ている経理の人間が、「こんなFAXが来てます」ともってきた。

 そこには、「ビル明け渡しに付き、引越料として2フロア分、9,000万円を支払う」と書いてあるではないか。

 そのビルは、森ビルが所有していたが、新橋からまっすぐ伸びる通称マッカーサー通りに引っかかるため、2年で出ていくことが条件だったが、その代わり引っ越し代を東京都が払うという契約になっていたのである。

 すっかり、カネの工面のことで頭がいっぱいで、失念していた。地獄に仏である。

 このカネですべてを清算して、部員たちにも1カ月分の給料を払えた(私の給与は倒産が決まった数カ月前からゼロにしていた)。

 平成20年7月から晴れてフリー編集者として、細々だが、自由気ままな生活が始まったのである。

(文中敬称略=続く)

 

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

連載
J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
プレジデント・オンライン
『エルネオス』メディアを考える旅
『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
日刊サイゾー「元木昌彦の『週刊誌スクープ大賞』」

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