日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(1)
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ジャーナリスト 元木 昌彦 氏
『キャッツ』や『オペラ座の怪人』など、日本最大のミュージカル劇団である劇団四季。その創業者である浅利慶太さんは、超一流の演出家であり、有能な経営者でもあった。劇団四季の復活からパリ祭(フランス革命記念日)の1日前に亡くなるその日まで、浅利さんが生きていた時代を一度たりとも忘れることはできない。
『キャッツ』の初公演は劇団存亡をかけた大博打
浅利慶太さんといっても知らない方がいるかもしれないが、『キャッツ』『オペラ座の怪人』『美女と野獣』の劇団四季といえば、大方の人が知っているに違いない。日本国内に7つの専用劇場をもち、年間の総公演数は3,000回以上、総観客数は300万人を超えている。俳優、技術スタッフ、営業スタッフは1,000人以上という日本最大の演劇&ミュージカル集団に育て上げたのが、浅利さんである。私は長い間、親しくお付き合いしていただいたが、彼は超一流の演出家であり、経営者としても稀有な才能をもった人であった。
劇団四季の『キャッツ』は初公演から36年になるという。初演のときのことはよく覚えている。東京・新宿にある「京王プラザホテル」の前に、巨大なテント小屋「キャッツシアター」を建て、1983年11月11日、『キャッツ』の第1回公演が行われた。前日は、関係者たちを招待する特別公演だった。私は当時、『週刊現代』の編集者だったが、『週刊新潮』や『週刊文春』の編集者たちと連れ立って行った。『キャッツ』は浅利さんが劇団四季の存亡をかけた大博打だった。
『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』(文春新書)で浅利さんはこう書いている。「私も覚悟を決めていました。失敗したら劇団は解散し、個人資産を処分して劇団員に分配するつもりでした。私は、自分の生命保険の金額まで計算していました」。
劇団四季の復活を確信
まるでサーカス小屋のような大きなテントが明かりに照らされ、夜空をバックに光輝いていた。「総客席数1062、最後列からステージまでの距離は20m。観客の誰もが俳優の表情を見て取れるすばらしい専用劇場ができあがりました」(同書より)。それを見たとき、私は劇団四季の復活を確信した。
話は遡る。劇団四季は浅利慶太さんが慶応大学の学生のときに立ち上げた。ジャン・ジロドゥとジャン・アヌイという2人のフランス現代劇作家に魅了された慶應と東大のフランス文学の学生10人が、「演劇界に革命を起こす」という志をもって集まった。正式な創立日は1953年7月14日、パリ祭(フランス革命記念日)を選んだ。
浅利さんは、大叔父に歌舞伎俳優の二代目市川左團次をもち、父親は芸名・三田英児という映画スターで、後に創設間もない俳優座に入っている。慶応高校時代に日本を代表する劇作家である加藤道夫先生に出会って、大きな影響を受けた。旗揚げ公演は1954年1月22日、東京港区芝にある中央労働委員会会館で、ジャン・アヌイ作『アルデールまたは聖女』を上演し、上々の評価を得る。しかし、貧乏暮らしからは抜け出せず、20代半ばになって就職したり結婚して抜けていく仲間も出てきた。それでも1960年には有限会社劇団四季を創設し、月給制度を取り入れて、何とか分裂を避ける努力をした。
劇団四季を喰える集団にするにはどうしたらいいのか。答えは極めてシンプルだった。「観客がチケットを買ってくれること。その価値がある舞台をつくること。それしかありません」(同書より)。彼の持論は、演劇をやる者は演劇で生活しなくてはいけないというものだった。
(つづく)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長。現在は『インターネット報道協会』代表理事。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)などがある。関連キーワード
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