2024年11月23日( 土 )

【縄文道通信第49号】「縄文道」と「武士道」 今も息づき未来に活かせる(前)

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(一社)縄文道研究所

 NetIB-Newsでは、(一社)縄文道研究所の「縄文道通信」を掲載していく。
 今回は第49号の記事を紹介。


縄文道と武士道の相違点と連続性~「道」の定義

 宇宙と人類の進んできた道義のある道―pass wayという定義で、縄文道と武士道の相違点を述べたい。また、歴史的な連続性があることを強調したい。 

 物語は、ヨーロッパのEUの首都ベルギー・ブリュッセルとスイスの国連本部のあるジュネーブから始まる。

 筆者は、今から約28年前に日商岩井(株)(現・双日(株))のビジネスで、ブリュッセルに駐在していた。当時手元に置いて読んでいた本が日英両語で書かれた、新渡戸稲造博士の『武士道』であった。ほぼ3カ月に一度、ジュネーブの国際連合の資源関連部署に面談に訪れていたため、新渡戸博士の生き様には強い関心を寄せていた。

 新渡戸博士は国際連盟の本部のあったスイスのジュネーブで、国際連盟次長という要職にあった。新渡戸博士は、さまざまなヨーロッパの国々を訪問していたが、『武士道』の書籍を著すきっかけとなった場所が、ベルギーのブリュッセルであった。

 『武士道』の序文の冒頭から、動機の部分を以下に引用する。

 「およそ10年前のことである。私はベルギーの国際法学の大家、故ド・ラブレー氏の家に招かれ、数日を過ごしたことがあった。ある日2人で散歩をしていたとき、私たちの話題が宗教問題になって、私はこの尊敬すべき老教授から『それではあなたの説によると、日本の学校においては宗教教育はなされていない、ということなんですか』と聞かれた。『ありません』私がそう答えると、氏は驚いたように突然歩みを止めて、『宗教がない!それでどうして道徳教育を授けることができるのですか』と繰り返したその声を、私は簡単には忘れないであろう」

 この質問への答えを導くために、妻のメリー氏との対話や自己の家庭教育から始まったさまざまな体験を集積し、完成したのが『武士道』である。そのため、書籍の第1章は「道徳体系」としての「武士道」である(原文は「Bushido as an ethical system」)。以下の17章の章立てになっている。

(1)道徳体系としての武士道
(2)武士道の淵源
(3)義または正義
(4)勇気・敢為堅忍の精神
(5)仁・惻隠の心
(6)礼儀
(7)真実および誠実
(8)名誉
(9)忠義
(10)武士の教育および訓練
(11)克己
(12)切腹および敵打ち
(13)刀・武士の魂 
(14)婦人の地位と教育
(15)武士道の感化
(16)武士道はなお生き残れるか
(17)武士道の将来
 脚注

 上記の章立てから、『武士道』が紀元前660年に天皇制で最初の神武天皇から始まる神道とその後の仏教、儒教、道教の教えに基づく日本人の道徳体系を、見事にまとめた偉大な名著であることがわかる。新渡戸博士は英語で「武士道」についての講演を世界中で行い、世界の多くのリーダーの日本および日本人に対する理解を深めるなど影響をおよぼした。最後はカナダのバンクーバーで病に倒れ、71歳の生涯を終えた。

 筆者は、偶然にも長女がバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の東洋書籍を扱う図書館に勤務していたときに、図書館の横にある新渡戸博士の業績を称える新渡戸庭園を訪れ、ブリュッセルでの『武士道』の執筆の動機に思いを馳せたものだった。筆者は、たびたび図書館にこもって新渡戸博士のさまざまな書籍に触れ、多くの啓発を受けた。

 多くの人に知られていることは、新渡戸博士が札幌農学校で農業学の学問に打ち込んだこととおよびクラーク博士の去った後の2期生ながらキリスト教の洗礼を受けたことだ(クラーク博士は後にアメリカに渡り、クエーカー教徒に改宗)。

 北海道との縁でいうと、満州から引き揚げてきた筆者が極度の栄養失調になり、北海道・岩内の親戚に預けられて、健康が回復した土地である。また、北海道は蝦夷の地、アイヌ人の大地であり、アイヌ人の子どもの物語『コタンの口笛』の著者、石森 延男氏に「春一」と命名していただいた。この本は児童文学賞を受賞し、石森氏はその後、児童文学者として名声を博し、日本の小学校の教材作成の最高責任者として長らく児童教育に貢献された。アイヌ人は縄文人のDNAを約70%持つ、生粋の縄文人でもある。

(つづく)


Copyright Jomondo Kenkyujo

(後)

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