園村剛二サンコーホールディングス前社長、経営者を超越した思想家(2)親会社倒産を乗り越えて
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半世紀近く福岡のゼネコンの経営者を眺めてきた。しかし、園村剛二氏のような経営者にはお目にかかったことがない。性格が潔い、淡白、気品があるというレベルではないのだ。園村氏の最終的な決断は、経営者というレベルを超えて思想家のレベルに達したと評価できる。福岡にとどまらず、日本全体を俯瞰しても、ゼネコンの経営者で園村氏のように思想家の水準にまで達した逸材は管見の限り知らない。
親会社の倒産、千載一遇のチャンス到来
2003年に親会社の三井鉱山(株)が産業再生機構の支配下に置かれ、実質的に国有化された。事実上の倒産である。1889年に国から払い下げられて、三井鉱山の躍進が始まった。ところが、国に尻を拭いてもらうという情けない結末を迎えたのだ。2006年まで国有化の状態が続き、新日本製鉄などのバックアップを受け、日本コークス工業(株)として再生をはたした。
親会社の事実上の倒産により「子会社の三鉱建設工業(株)は危ない」という信用不安が表沙汰にならなかったのは不幸中の幸いであった(取引先の大半は三鉱建設工業と三井鉱山との関連性を十分に理解していなかった)。しかし、園村氏の心境は異なっていた。親会社の事実上の倒産による信用失墜を食い止める策を講じなければならないという重圧感と、親会社からの解放感という、相対立する感情を抱え込んだ。
園村氏がたどり着いた結論は2つだ。(1)依存してきた親会社が存在しなくなったため、自立できる組織づくりを完了させる。(2)立派な業績を持続させられれば信用不安は一掃できる。
覚悟を決めれば行動は速かった。04年8月に商号を(株)サンコービルドに変更した。同社はもともと1972年に三井鉱山堅抗トンネル掘鑿(株)として設立。いかにも三井鉱山の炭鉱トンネル工事を担う子会社のイメージである(当時の本社は東京)。83年に商号を三鉱建設工業に変更し、本社を福岡市博多区に移転、97年には中央区に移転した。
移転は、三井鉱山経営陣が「もう面倒を見きれないから自前でやりなさい」と通告してきたことを意味する。幹部になっていた園村氏は、親会社の本音を十分に理解していた。「まずは親会社に頼らなくてよいように受注力の強化と人材の育成を行わなければならない」と自身に言い聞かせた。そして親会社の事実上の倒産を受け、前述したように商号を変更し、ここにサンコービルドが誕生した。
それまで三井鉱山の子会社であったが、園村氏は「社員のみなのための会社」という理念を打ち立てた。「努力、研鑚して能力を磨けば誰でも社長になれる」という方針を明らかにした。そうすると、若手の人材が求人に対して応募するようになってきた。園村氏は理念の確立、理念実現のためのルール策定をすべて陣頭指揮し、満を持して09年4月に社長に就任した。
その後、サンコービルドの業績を地場トップクラスの水準にまで伸ばした最大の功労者は園村氏である。「中興の祖」という評価に関係者が納得するわけである。親会社・三井鉱山の倒産は、メリットが不十分な親会社から解放される千載一遇のチャンスであり、この好機をつかみ、短期間で地場トップクラスにまで飛躍させた園村氏の経営手腕は、卓越した非凡さによるものといえる。
後戻りはしない、前進あるのみ
サンコービルドの過去20年の業績の推移を見ていただきたい。とくに園村氏が社長に就いた09年以降の業績の伸びが顕著である。前回触れたように、幹部の証言によると、09年当時の企業基盤は盤石でなかった。
しかし、10年以降の業績の改善は目覚ましい。20年3月期は売上高122億6,474万3,000円、経常利益12億772万6,000円、21年3月期予想は売上高135億9,900万円、経常利益13億4,200万円となっている。
最大の原動力は理念を具体化させたこと。“園村哲学”を具体的な業務にまで落とし込んだことが躍進の原動力となった。「会社はみなのもの、誰もが社長になれる」という理念が全社員にも叩き込まれた。
すべての取引関係者が「サンコービルドの社員の方々は全員が真面目である」と異口同音に語る。同社はこう評される風土を形成してきた。しかし、真面目とはいえおとなしいだけではなく、実際には「後戻りしない、前進あるのみ」という攻撃的な精神で武装されている。
苦い経験を踏まえ、再挑戦する気質
園村氏の頭には「同業者との差別化が必要」という信念と自負がある。何よりも工場関係の設備投資の案件が多い。北九州支店長は実感を込めて、「福岡市とは客層が全然違う。工場の案件が多い」と語っていた。
三井鉱山の子会社という歴史的な資産が生きているのだ。同時に、ほかのゼネコンとは異なり景気の波に左右されない強みをもつ。また、トライアルカンパニーなど店舗展開するクライアントへのアプローチに長け、実績を積み上げている。
これに加えて、(株)さとうベネックの倒産で良質な人材と縁ができたことは同社にとってプラスとなった。サンコービルドは三鉱建設工業時代に東京進出を図ったものの失敗に終わり、撤退した苦い経験がある。園村氏は「機会があれば東京進出をはたそう」と虎視眈々と機会をうかがっていた。そこに予想しないところからチャンスが転がってきた。さとうベネックの倒産により、同社の東京支店の基盤と人材をそっくり引き取ることができたのである。現在、東京支店で20億円の完工高を上げており、同支店に寄せられる期待は大きいようだ。
(つづく)
<プロフィール>
園村 剛二(そのむら ごうじ)
1950年6月生まれ、福岡県田川市出身。近畿大学卒、地場建設会社を経て三鉱建設工業(現・サンコービルド)に入社。建設部長、大牟田支店長、本社営業部長、営業本部長、常務取締役を経て09年4月に代表取締役社長に就任。14年2月にサンコーホールディングスを設立し代表取締役に就任、16年4月にサンコービルドの代表取締役会長に就任。21年3月に2社の代表取締役を定年で引退する。関連記事
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