2024年11月22日( 金 )

酔いどれ編集者日本を憂う(後)

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『週刊現代』元編集長 元木 昌彦 氏

酔いどれ イメージ そのうえ、この10年間で東日本大震災と新型コロナウイルス感染拡大という巨大な災禍に見舞われ、政治に期待できることは何もないと、身に染みてわかってしまったのである。安倍前首相と菅首相は「コロナ対策に万全を尽くす。国民の安全と安心は守り抜く」といいながら、コロナに対応する病床を増やしたり、専門病院をつくることをやってこなかった。ワクチンを自国でつくることもできず、ワクチン確保にも失敗してしまった。コロナ感染者数が下げ止まらないのに「東京五輪だけは何としても開催する」とIOCの走狗となり、多くの民意を無視して強引に進めている。その裏には、東京五輪閉会後に解散・総選挙へ打って出て、政権の延命を図りたいという腹黒い打算があることは間違いない。

 こうした権力者の暴挙に、東京五輪反対のデモ行進とはいかなくても、何らかの国民の意思を示すべきだと思うのだが、我らが日本人は怒ることさえ忘れたかのようである。それが証拠に、6月20日に発表された共同通信の世論調査によると、菅内閣の支持率は44.0%で、前回の5月の調査時は41.1%だったから3%近くも上がり、不支持率の42.2%を上回ったのである。民意を無視し、国民の命を危険にさらすことに躊躇しない政権をなぜ、半数近くが支持するのだろう。私には同胞たちの考えがまったく理解できない。支持する理由の多くは「ほかの人よりよさそうだから」というものだろうが、菅首相よりましな人間は自民党のなかでさえ掃いて捨てるほどいる。

 かつて竹下登元総理が自分の言葉遣いを「言語明瞭、意味不明瞭」といったことがあった。菅首相は、どちらも不明瞭なのだから、首相の女房役としては何とかやってこられたが、トップに立つ器でないことだけは「明瞭」である。しかし、日本人は去勢された競走馬のようにおとなしくなり、目の前で起きている理不尽なことに怒らないどころか、唯々諾々と受け入れているようにさえ思われる。

 作家の辺見庸も政治学者の宇野重規もこのようにいっている。

 「テレビやラジオからは一日中、バカ笑いが聞こえる。格差や貧困や差別、不正がこれほどまでに歴然としているのに、それを個々人が故意に『見まい』、『感じまい』としているようでもある」(辺見庸『コロナ時代のパンセ』毎日新聞出版)

 「私たち自身のなかに、『平等な個人による参加と責任のシステム』自体を否定する感情が生まれつつある。自分たちが意見を言おうが言うまいが、議論をしようがしなかろうが、答えは決まっている。ならば誰か他の人が決めてくれればそれでいい――そういうあきらめの感覚に支配されること。これこそが民主主義の最大の敵であり、脅威だと思います」(宇野重規=朝日新聞6月17日付より)

“真っ当”に怒れ、日本人

『週刊現代』元編集長 元木 昌彦 氏
『週刊現代』元編集長 元木 昌彦 氏

 世界全体のGNPのなかに占める日本のGDPは、1994年の17.9%から2020年は6%にまで縮小し、日本を代表するトヨタ自動車も世界的なEV車の流れに乗り遅れ、先細りは目に見えている。

 「日本埋没」といわれるなかで、お粗末な政治、東芝のような大企業の凋落、年金資金や日銀マネーを株式市場につぎ込み続ける経済政策、東京五輪のオフィシャルパートナーになり批判する手を自ら縛ってしまった大新聞など、どれをとってもこの国の光明は見い出せない。座して死を待つのか、国民が主権者たることに目覚め、自らの知を錬磨し、この国の舵取りを自分たちの手に取り戻し、新たな航海に船出するのかどうかが、今問われているのである。

 戦後、政治家や役人たちによって、憲法の前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という文言を忘れるよう教育されてきた。ここでもう一度前文を読み返し、主権は我にありと自覚したら、今の政治の在り方に怒りが湧いてこないはずはない。

 五輪開催を国民の命よりも優先するこの国の政治に、怒りをぶつけようではないか。この程度の国民だから、この程度の政治、この程度のメディアしか、この国には存在しないのだ。この国を一番悪くしているのは、何もいわない、怒らない、行動しない国民だということを自覚すべきだと思う。白井聡は『主権者のいない国』(講談社)で我々にこう迫っている。

 「内政外政ともに数々の困難が立ちはだかるいま、私たちに欠けているのは、それらを乗り越える知恵なのではなく、それらを自らに引き受けようとする精神態度である。真の困難は、政治制度の出来不出来云々以前に、主権者たろうとする気概がないことにある。(中略)そして、主権者たることとは、政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。それは、人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力のなかにしかない。つまりは人として当たり前の欲望に目覚めること、それが始まるとき、この国を覆っている癪気(しゃっき=筆者注)は消えてなくなるはずだ」

 原爆被爆と敗戦、阪神・淡路大震災、東日本大震災と原発事故、今回のコロナ禍。何が起きてもそのときは大騒ぎするが、喉元を過ぎればあっという間に忘れ去ってしまって歴史に学ぶことをしない日本人という困った民族。酒を飲むしか能のない私でさえも呆れ果てる、このような国がほかの国から尊敬されるはずはない。

 まずやるべきことは“真っ当”に怒ることである。腐臭漂う我利我利(がりがり)亡者たちの巣窟である永田町政治に対して、株主の利益ばかりを優先して消費者のことを考えない大企業や権力のポチに成り下がっているメディアに対して、怒りを呼び覚ますのだ。我々は、自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力を、今すぐに始めるべきである。たとえコロナ禍のなかであっても。(文中敬称略)

(了)


『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』
(現代書館・定価1,700円)

<プロフィール>
元木 昌彦
(もとき・まさひこ)

1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に講談社を退社後、市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。現在は『インターネット報道協会』代表理事。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、などがある。

(前)

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